昔と今

大阪の昔と今

大阪市は、以前そこに何があったかを言える場所を記録しています。その記述を古い順に並べました。市は旧写真を添えていますが、こちらには掲載する権利がないため、このページは本文のみです。

1900年以前

鉄橋の高麗橋

明治3年(1870) · 中央区 · 北浜駅 286 m

高麗橋は江戸時代、西日本の街道の起点であった。大阪で最初の鉄橋として、明治3年9月に完成した高麗橋。欄干の柱頭にガラスの灯籠が設けられ、鉄製の橋杭も美しく、通称くろがね橋といわれて見物客でにぎわった。明治9年には、大阪府里程元標が設置された。その後、60年にわたって利用された鉄橋が、昭和4年に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け換えられ、高欄の柱には青銅製の擬宝珠がつけられている。現在、橋の東詰に橋詰広場がつくられて由来碑が建てられ、里程元標の碑もある。

造幣局と外輪船

明治4年(1871) · 北区 · 京橋駅 827 m

明治4年4月、造幣局(当初は造幣寮)が画期的な洋式設備で貨幣製造を開始、わが国の近代的工業のさきがけとなった。左方に鋳造所の正面玄関、外輪船の行く大川に面した西洋建築の威容に人々は目を見はった。その後、昭和4年から3期にわたって工場・庁舎の改築を行い、昭和13年に全体が完成した。また、明治16年からは、構内の桜並木の一般開放を始め、以来「通り抜け」として大阪の春の風物詩となり、多くの人々で賑わっている。(平成15年に、独立行政法人造幣局となった。)

天保山の燈明台

明治5年(1872)頃 · 港区 · 大阪港駅 476 m

江戸時代、安治川の川底を浚渫した際、その土砂を積み上げて防波堤を築き、これを天保山と呼んだ。幕末、ロシアの軍艦の到来に一時砲台が置かれ、開港後、明治5年には英国人技師ブラントンの設計で木造四角形の燈明台が建設点灯された。明治21年には天保山遊園が開園して一帯は行楽地として賑わい、灯台は明治27年に木造六角形に改築され、43年まで点灯されていた。のち昭和32年天保山公園が開園するが、かつて20mほどあった天保山は、いま標高4.53mで日本一低い山として知られるようになった。

初代の大阪駅

明治7年(1874) · 北区 · 西梅田駅 173 m

明治7年5月11日、大阪-神戸間に鉄道が開通、同9年9月5日には大阪-京都間が開通した。大阪駅舎は赤レンガ造り2階建洋風の当時としては瀟洒な停留場で、駅の出入口に庭園や池が設けられ、梅田ステンショといわれた。同34年に、新駅舎が東寄りの現在地に建築されて、駅舎の跡地は構内施設として利用されたが、昭和14年、大阪中央郵便局が移転開設された(中郵の裏あたりが旧駅舎の位置)。当時の逓信省営繕課の吉田鉄郎設計による鉄骨鉄筋コンクリート造7階建の局舎は、大阪駅前の1つの顔として長く親しまれてきたが、最近、隣接ビルとあわせた建替計画が進められている。

凌雲閣

明治22年(1889) · 北区 · 梅田駅 356 m

明治時代は、高い建物が珍しかった。ミナミの眺望閣に対し、明治22年4月、北野茶屋町に木造9階建て高さ130尺(39m)の娯楽センター・凌雲閣が登場した。八角錘台で「北の九階」と呼ばれた展望台で、園内には池や丘などがある有楽園という遊園地である。その後、凌雲閣跡地は明治39年に梅田東小学校となり、平成元年に統合されるまで長い歴史を刻み、門のところに凌雲閣跡の碑と説明板が設置されていた。なお平成23年から、旧学校敷地と隣地をあわせ、東西道路の拡幅などの土地区画整理事業が着手されている。

桜の宮水源地

明治28年(1895) · 都島区 · 都島駅 548 m

大川西岸から、創設当時の桜の宮水源地を眺望。堤防下にあった取水口は現在も保存されている。明治28年、大川沿いに桜の宮水源地が完成し、大阪市の水道が創設された。のち、大正3年に新淀川沿いに柴島水源地が完成、桜の宮水源地は廃止されて、跡地には、市電都島車庫(大正11年)、官設鉄道淀川貨物駅(昭和2年)が開設された。その後、市電車庫は昭和44年、貨物駅は昭和57年に廃止となる。貨物駅跡地は、設計競技による桜之宮中野地区都市型集合住宅プロジェクト開発によって、12~41階建の高層住宅群が平成4年に完成、市電車庫跡地には大阪市総合医療センターが平成5年に開設した。

江之子島の初代市庁舎

明治32年(1899) · 西区 · 阿波座駅 298 m

明治22年の大阪市発足後も、市制特例によって業務は大阪府知事が執行していたが、市制特例廃止に伴い、明治32年12月、府庁舎の北に初代の大阪市庁舎が建設された。木造2階建て建坪250坪(830平方メートル)の仮庁舎であったが、市役所が府庁舎を離れて独立した意義は大きかった。その後も、財政難から本格的な庁舎は見送られるが、明治45年、堂島に木造庁舎を建築して移転した。跡地には、現在マツダ㈱の営業施設併設の14階建マンションが建っている。

1900年代

堂島川北岸の控訴院

明治34年(1901)頃 · 北区 · 北浜駅 592 m

堂島川沿いに建つ壮麗な建物は、明治33年3月に竣工した2代目大阪控訴院である。明治23年建築の前庁舎が火災で焼失して再建されたものだが、この庁舎も明治42年の北の大火で再び焼失してしまう。このため大正5年に、中央に高塔をもったルネサンス風煉瓦造3階建の大阪控訴院庁舎が再建され、赤レンガと呼ばれて長く親しまれた。のち建替えられることになり、昭和49年に、前庭を大きくとった現在の鉄骨鉄筋コンクリート造11階建の、大阪高等・地方・家庭裁判所合同庁舎が完成した。

築港大桟橋

明治36年(1903)頃 · 港区 · 大阪港駅 673 m

大阪港の築港大桟橋は長さ454mで、明治36年8月に供用開始した。当初は思うように利用が伸びなかったが、大正期には第1次世界大戦景気で貿易が進展し、大大阪の発展に大きく貢献する。昭和9年の室戸台風で大破し、その後波除堤が築造され、昭和19年に、大桟橋に代わり長さ350mの中央突堤が完成するものの、戦災や地震・高潮で壊滅的な被害を受ける。復旧後の中央突堤にのちに設けられたハーバーレーダーも今はなく、平成9年に大阪港咲洲トンネル出入口が設けられている。いまは中央突堤から見る夕陽の美しさが有名で、少し北側の水面には、コペンハーゲン港との文化交流の一環で贈られたマーメイド像が設置されている。

日本銀行大阪支店と淀屋橋

明治36~44年(1903~1911) · 北区 · 淀屋橋駅 267 m

日本銀行大阪支店は、明治36年1月に大川町(現北浜四)から中之島の現在地に新築移転した。辰野金吾設計による煉瓦・石造建築で、中央のドーム屋根が特徴的である。のち日本銀行大阪支店は保存されることになり、昭和57年に6階建新館の新築と旧館の保存修築工事が完成した。手前の淀屋橋は、明治18年淀川大洪水による流失後、同19年に幅9mの鉄柱木桁橋に復旧され、このとき大江橋と直線で結ばれた。明治44年に市電敷設のため拡幅・鉄橋化されるが、御堂筋の開通に際して、昭和10年に意匠設計の公募により、幅36.4mの花崗石張りの鉄骨鉄筋コンクリート造アーチ橋に架け替えられ、日銀とともに重厚な景観で中之島のシンボルとなっている。(日銀・淀屋橋とも重要文化財に指定されている)

福崎焼却場

明治36年(1903) · 港区 · 朝潮橋駅 1167 m

明治36年に、尻無川下流の福崎町に建設されたごみ焼却場。規模は小さく、実験焼却の域を出さなかったが、この実績が、大量処理能力を持つ木津川焼却場の建設につながり、福崎焼却場は大正5年に廃止された。福崎焼却場があったところは、平成23年現在、杉村倉庫福崎倉庫や、メーカーの物流センター・商品センターなどとなっている。

天王寺公園

明治42年(1909) · 天王寺区 · 天王寺駅 228 m

明治36年に開催された第5回内国勧業博覧会会場跡地を利用して、明治42年12月、市立2番目の公園として東側高地部を天王寺公園として開設、45年に西側低地部に拡張した。勧業博の美術館・日本庭園・温室・洋式花壇が公園内施設として活用され、大正4年には西側に市立動物園も開園した。その後、昭和のはじめに住友家から慶沢園・茶臼山の寄付を受け、昭和11年に市立美術館が開館した。昭和62年には公園地下に駐車場を建設し、平成2年、公園の再整備にあわせ有料化された。

1910年代

明治の渡辺橋

明治43年(1910) · 北区 · 肥後橋駅 387 m

市電の南北線建設に伴って、明治41年に架け替え工事が完成し、20年後の昭和2年まで市電道路を支えた。南詰東側の建物は大阪郵便電信局。昭和2年に、幅27mの中央部が鋼アーチのネオルネッサンス様式の華麗な橋に架け替えられた。その後の地盤沈下もあり、地下鉄工事にあわせ、昭和41年に、肥後橋とともに幅29mの鋼床版桁橋に架け替えられた。郵便電信局のところは、のち昭和33年に新朝日ビル(フェスティバルホール、大阪グランドホテル)となった。さらに、平成23年現在、39階建の中之島フェスティバルタワーとして建替中である。

堂島の2代目市庁舎

明治45年(1912) · 北区 · 西梅田駅 566 m

明治45年5月、堂島浜通に竣工した2代目市庁舎。財政難から木造2階建ての仮庁舎で、延坪は1,633坪(5,398平方m)、初めて市会議事堂を備えた。その後、大正10年に、ようやく本格的な市庁舎が中之島に建設されて移転した。跡地には、昭和2年に鉄筋コンクリート造4階建の大阪中央電話局が建築される。のち大阪市外電話局となり、現在は、8階建のNTTテレパーク堂島第1ビルとなっている。

桃山病院

明治45年(1912) · 天王寺区 · 鶴橋駅 367 m

桃山病院は、明治29年4月に常設伝染病院として開設された。正面左は明治45年新築の本館、右は同40年新築の研究室などで、以降施設の近代化が進められる。大正10年、近代風木造建築に改築されるが、関東大震災による東京の被害状況から、昭和12年には鉄筋コンクリート造への全面建替えを完成させた。昭和21年には桃山市民病院も創設される。のち、平成5年に、桃山病院・市民病院とも市立総合医療センターに統合され、跡地は筆ヶ崎地区の整備事業によって、高層マンション・温泉フィットネス・スポーツ施設・こども広場などとなっている。

船場尋常小学校

大正4年(1915)頃 · 中央区 · 本町駅 251 m

明治5年創立の堵西小学校と、同6年創立の中船場小学校が同18年に合併して、同20年に船場尋常小学校となった。写真は大正4年に改築した新校舎で、モダンな外観が評判になった。その後、昭和17年に愛日小学校に合併した。のち跡地に、昭和40年市立安土町駐車場(地上9階・地下3階・450台)が建設された。さらに、平成13年に15階建のヴィアーレ大阪・コーシャハイツ安土町、地下3階の安土町駐車場が併設された施設に建て替えられている。

旧大阪府庁舎

大正5年(1916)頃 · 西区 · 阿波座駅 232 m

明治7年7月、木津川東岸の江之子島に完成した大阪府庁舎は、煉瓦造石灰モルタル塗り2階建の威風堂々たる洋風建築で、「江之子島政府」とも呼ばれた。市制発足当初の大阪市の事務もここで行われ、大正5年両翼が増築された。大正15年、府庁舎が大手前に移転した後は、府立工業奨励館となり、昭和20年戦災でほとんどが焼失した。再建されたのち、昭和48年工業技術研究所、同62年産業技術総合研究所と改称、平成8年和泉市に移転された。跡地は、事業コンペにより売却されマンションの工事中で、旧府庁舎の遺構は一部保存することとされている。また、手前右の旧産技研の施設には府立江之子島文化芸術創造センターが開設。

朝日新聞社

大正5年(1916) · 北区 · 肥後橋駅 264 m

大阪朝日新聞社ビルは、近世ルネサンス式・鉄筋コンクリート造4階建で時計塔つきのビルが、大正5年に完成した。その後、建替えのために昭和40年に取り壊され、同43年に13階建の朝日新聞ビルが完成し、ビルの中を阪神高速道路が通るという立体道路の先駆けでもあった。さらに現在、四つ橋筋をはさんだフェスティバルホールとともに、高さ200mのツインタワーへの建替えが、平成30年の完成をめざして進められているところである。

鉾流橋

大正7年(1918) · 北区 · 北浜駅 427 m

天神祭の鉾流しの神事にちなむ橋名がつく鉾流橋は、西天満と中之島を結ぶ橋として、大正7年に架橋された木鉄橋であり、同年に完成した中央公会堂が後ろに写っている。昭和4年に第1次都市計画事業によってゲルバ―式鋼桁橋に架換え、幅員も11mに拡幅された。その後、戦争中の金属供出などにより、高欄・照明灯が撤去され、戦後応急的に復旧された形になっていたが、昭和55年に美装化工事が行われ、中央公会堂とも調和するように整備されている。

本庄公設市場

大正8年(1919)頃 · 北区 · 中崎町駅 88 m

公設市場は、市民の生活費軽減と小売制度の改善を図るもので、大阪市は、米騒動の以前に4ヵ所を設置した。本庄公設市場は、空堀・築港・西野田・木津各公設市場とともに大正8年4月に開設された。その後昭和49年に、上階に住宅供給公社の中崎コーポを併設した12階建施設に建替えられた。のち公設市場は、ナベルの愛称でスーパーと店舗からなる新しい市場に生まれ変わっている。

1920年代

北市民館

大正10年(1921) · 北区 · 天神橋筋六丁目駅 88 m

大正10年6月、天六交差点東側に開設された鉄筋コンクリート造4階建て、地域社会の福祉を図る公設セツルメント。初代館長志賀志那人の実践的運営により、大阪市社会事業の拠点となった。その後、ツタで覆われた外観がシンボルとなっていた。跡地には平成13年に、大阪市住宅供給公社・民間施設との合築により、市立住まい情報センターが建設された。地下鉄天神橋筋六丁目駅と直結し、住情報プラザ・住まいのミュージアム大阪くらしの今昔館・子育ていろいろ相談センターなどが併設されている。

大阪市庁舎

大正10年(1921) · 北区 · 淀屋橋駅 320 m

大正10年、3代目となる大阪市庁舎が中之島に完成し、堂島の木造庁舎から移転した。新市庁舎は、設計公募による近代ルネサンス様式の塔屋つき鉄筋コンクリート造5階建で、以後長く市民に親しまれたが、老朽化と狭隘のため建替えられることになる。まず別館跡地の1期工事が昭和57年に完成、つづいて旧庁舎跡の2期工事に着手し、同61年1月竣工式が行われた。新市庁舎は、デザイン構想案の指名競技を経て、鉄骨鉄筋コンクリート造8階建で、花崗岩貼りの外観は旧庁舎を継承している。また、手前の淀屋橋は、市電敷設によって明治44年に完成した鉄橋から、御堂筋の建設に伴って、昭和10年に、意匠設計公募による現在の鉄筋コンクリートアーチ橋に架け替えられた(重要文化財指定)。

市営堀川住宅

大正11年(1922) · 北区 · 中崎町駅 289 m

昭和初期の住宅需要増大とインフレによる建築資材高騰は、貸家業者の建築手控えとなり住宅難が深刻化した。市営住宅はこれに対応するもので、大正8年~15年に6ヵ所1,285戸を建設した。市営堀川住宅は、大正11年度に木造2階建194戸が建設されたが、昭和20年の戦災でほとんどが被災して、仮設住宅が建設された。平成元年度に、扇町地区の整備にあわせ、14階建の市営扇町住宅として敷地を集約化して建替えられ、残る住宅敷地は扇町公園に編入整備された。

鐘淵紡績淀川工場

大正13年 · 都島区 · 都島駅 886 m

大正7年に、友淵町に開業した鐘淵紡績淀川工場は、社宅などを含む広大な敷地で区内でも最大の工場であった。しかし、戦後の繊維不況などもあり、昭和49年に淀川工場は休止され、長浜工場に移転して、同57年には全面閉鎖された。跡地には、36階建超高層2棟を含む約3600戸の「ベルパーク・シティ」をはじめ、公団リバーサイドともぶち団地・公社友淵コーポ・市営友淵住宅や、友淵小学校・友淵中学校などが建設され、大規模な住宅地に転換されている。

大軌ビルディング

大正15年(1926) · 天王寺区 · 谷町九丁目駅 449 m

大正15年、上本町6丁目に完成した大阪電気軌道のターミナルビル。地下から3階までが三笠屋百貨店で、昭和11年に直営の大軌百貨店となる。その後、関急百貨店、昭和23年近鉄百貨店上本町店、同44年上本町近鉄百貨店と改称した。さらに昭和48年には、12階建の上本町ターミナルビル・上本町近鉄百貨店の増築整備が完成し、同60年には21階建の都ホテル大阪も開業した。さらに、平成22年、南側の上本町YUFURA(商業施設・オフィス・新歌舞伎座等)の開業にあわせて、百貨店の全館リニューアルも完成している。

大阪中央電信局

昭和2年(1927)頃 · 北区 · 肥後橋駅 609 m

大阪中央電信局は昭和2年に完成した、建築家の山田守設計による鉄筋コンクリート造5階建ビルで、弧形の屋階が特徴であった。のち電電公社大阪中央電報局となるが、昭和41年ごろ取り壊される。跡地には昭和45年、電電公社福島電話局が建てられ、その後電電公社の民営化にともない、現在は、NTTテレパーク堂島の第3ビルとなっている。

市立大阪商科大学

昭和3年(1928)頃 · 天王寺区 · 四天王寺前夕陽ケ丘駅 998 m

昭和3年3月、市立高等商業学校が大阪商科大学に昇格、同年大阪市経済研究所を設置した。翌4年から貿易・金融・経営および全国初の市政科を開設し発足したが、明治44年建築の烏ヶ辻校舎は狭かったため、昭和8年に、杉本町に学舎を新築し移転した(昭和24年大阪市立大学となる)。跡地には、昭和17年に大阪逓信病院が開設され、同27年電電公社の発足に伴い公社の大阪逓信病院となる。その後、平成2年に9階建の新病院に建替えられ、平成11年には、NTT西日本大阪病院と改称された。

心斎橋筋商店街

昭和4年(1929) · 中央区 · 心斎橋駅 330 m

大阪を代表する商店街。明治前期までは心斎橋北詰以北が栄えたが、明治中頃から南へ繁盛の中心が移った。写真は、昭和はじめの心斎橋筋の風景で、手前の東西道路は周防町通、左奥には高層の大丸百貨店が見えている。その後、心斎橋筋商店街にはアーケードがかけられ、都心の最先端の商店街として賑わうようになる。平成2年に、現在の吊り下げ構造の新アーケードが完成した。また、周防町通は昭和10年に拡幅されており、いまではヨーロッパ通りの愛称で呼ばれ、景観整備も行われている。

水晶橋と大阪控訴院

昭和4年(1929) · 北区 · 淀屋橋駅 428 m

水晶橋は、もともとは橋ではなく正式には堂島川可動堰といい、河川の浄化対策として昭和4年3月に完成した。幅員9mの広い歩行者専用橋で、昭和57年に改装にあわせて法律上も橋とされ、翌年からはライトアップもされて、中之島の夜間景観を演出している。背景の赤煉瓦の大阪控訴院は、地方裁判所・区裁判所との合同庁舎で大正5年に竣工し、この頃は高い護岸もなく、河川と河岸が一体の親水空間を形成している。その後、地盤沈下と高潮被害を経て現在の護岸となり、水晶橋も桁下が低くなっている。控訴院は、のち大阪高等裁判所と名称が変わり、昭和49年に、新しい11階建の大阪高等・地方・家庭裁判所合同庁舎として建替えられた。

道頓堀通と角座

昭和4年(1929) · 中央区 · 日本橋駅 318 m

この場所に初めて芝居小屋ができてから400年、道頓堀は大阪ミナミの中心で、劇場が並ぶ一大歓楽街として栄えてきた。なかでも、道頓堀五座と称された浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座がその中心であった。写真右側の角座は、宝暦8年(1758)に初めて歌舞伎の回り舞台を採用したことでも知られる。戦災で焼失し、戦後は映画館として復興され、昭和33年演芸場として再開場したものの、同59年に閉鎖された。その後、同61年に複合ビルの角座ビルに建替えられ、再開場した映画館も平成19年に閉鎖され、同20年には演芸場のB1角座も閉鎖された。その後、角座ビルも取り壊されている。

1930年代

拡幅後の御堂筋・梅田新道

昭和5年(1930)頃 · 北区 · 東梅田駅 398 m

御堂筋の建設は、市電道路を除けば市内最初の幹線街路の建設であった。その意義は道路の機能向上ではなく、快適な都市空間の創造にあった。堂ビルから北を望む写真で、正面奥に見える梅田阪急ビル前から大江橋北詰までは、御堂筋の最初の完成区間で昭和2年に完成し、街路樹はイチョウではなくプラタナスが植えられた。その後昭和45年には、この地点から右手に分岐して新御堂筋が開通し、現在、梅田阪急ビルは超高層に建替中、西側に大阪駅前第3・4ビル、東側にフェニックスタワーなどのビルが建つ。

建設進む天守閣

昭和5年(1930)頃 · 中央区 · 大阪ビジネスパーク駅 641 m

ほぼ鉄骨が組みあがって、全容を見せはじめた天守閣。総重量1万1,000トンと推計される天守閣の重量が、石垣にほとんど負担をかけないという特殊工法が使われ、建築学的にも注目を集めた。大阪城天守閣は、市民の募金をもとに、大坂夏の陣図屏風などを参考に豊臣期の姿を復興、昭和6年11月に、鉄骨鉄筋コンクリート造8階建天守閣の再建が完成した。のち、老朽化が進んだため、耐震補強工事や外観のリニューアル、車椅子用エレベーターの新設など、平成の大改修と呼ばれる全面改修が行われ、平成9年3月に完成した。

中央卸売市場

昭和6年(1931)頃 · 福島区 · 玉川駅 614 m

大阪市中央卸売市場は、水運・陸運などの条件から下福島を建設場所としたが、建設予定地には、多数の民家や、学校・伸銅所・倉庫などが密集、住民の反対運動や補償などで交渉は難航した。昭和6年に開場した市場は、敷地12haでその規模・設備はまさに東洋一であった。戦災により相当被害をうけるが、その後も施設の充実強化や拡張を進めてきた。さらに、平成2年からは、業務管理棟を手始めに、建替整備事業に着手し、3期にわたる工事が平成14年10月に完成して、市場は大きく生まれ変わった。

大阪歌舞伎座

昭和7年(1932)頃 · 中央区 · なんば駅 213 m

大阪歌舞伎座は、正面に巨大な丸窓のついた7階建、3、000人収容の近代劇場で、昭和7年10月のこけら落とし興行は、中村雁治郎・福助・魁車に東京の市村羽左衛門らが加わる東西大歌舞伎で大阪市中をわかせた。歌舞伎の上演とともに、6階にはアイススケート場を併設した。その後、昭和33年に、御堂筋に新歌舞伎座が開場して、歌舞伎座は閉鎖・改装されて、千日デパートが開業するが、同47年の千日デパート火災の惨事後に取り壊される。同59年にプランタンなんばが開業、業態転換ののち平成12年閉店し、同13年にビックカメラが開店した。

高島屋百貨店

昭和7年(1932) · 中央区 · なんば駅 173 m

高島屋は、明治31年に大阪店を開き、心斎橋支店・長堀店を経て、昭和5年に、南海ビルディング(南海電鉄難波ターミナル)に進出、昭和7年には7階建ビル全体が完成し全館オープンした。以来、難波の高島屋として御堂筋正面の位置を占めている。そののち、昭和53~55年のなんばCITY開業、難波駅の改造などに伴う改装等を行ってきた。さらに、平成23年には、9階建の東館事務所を店舗に改装して増床している。

難波駅前の地下鉄工事

昭和8年(1933)頃 · 中央区 · なんば駅 59 m

地下鉄の露天掘り工事では、長さ20メートルの鋼矢板を打ち込んだため、その騒音・振動は大変なものであった。写真は心斎橋-難波間の延長工事で、昭和8年に着工し、同10年10月に開通した。さらに、同12年に御堂筋が開通して、都心を南北に貫く道路・地下鉄の大動脈が完成した。以降、御堂筋沿道にはビルが建ち並んでくるが、街は変化を続けており、写真右側の南街会館(昭和28年開場)は平成18年東宝南街ビルに建替えられ、写真左側にある建築家の村野藤吾設計の新歌舞伎座(昭和33年開場)は平成21年に閉場したが、平成23年現在、特徴ある連続唐破風のひさしの姿を残している。

大江橋の建設

昭和8年(1933)頃 · 北区 · 淀屋橋駅 413 m

淀屋橋と一対をなす南欧中世紀風のデザインで、橋脚上にバルコニーがつくられている。鉄筋コンクリートアーチ構造、外装は花崗岩貼りの壮麗な橋の建設が着々と進んでいる。大江橋は、淀屋橋とともにデザイン設計が公募されたもので、昭和10年4月に完成した。のち、昭和40年に、大江橋の上に堂島川を通る阪神高速道路環状線が建設され、家並みもビル街に変わっているが、大江橋は完成当時と変わらず、平成20年淀屋橋ともに重要文化財に指定された。堂島川の水質も改善されてきて、水都大阪の趣を保っている。

地下鉄梅田駅地上入口

昭和8年(1933)頃 · 北区 · 東梅田駅 35 m

昭和初期、明るい初夏の日ざしに影を映す街路樹、和服姿の家族づれが、足どりも軽く梅田駅の入口へ向かう。道路の下を快走する地下鉄は、大阪の将来に不可欠の交通機関として計画され、半世紀後の今日、文字どおり都市交通の主役となった。昭和8年の開通間もない、写真の梅田駅出入口は南向きに撮られているが、同じ場所の現在の新阪急ビル前の地下街・ホワイティうめだの出入口は、当時とは出入口が南北反対向きになっている。

架け替え後の四つ橋

昭和9年(1934) · 西区 · 心斎橋駅 135 m

四つ橋は、西横堀川と長堀川が交差するところに架けられていた、4つの橋(上繋橋・下繋橋・吉野屋橋・炭屋橋)を総称していう。市電の走る西側の西長堀橋とともに、第1次都市計画事業によって昭和2年~3年に架け替えられた。昭和9年の写真で、対岸に電気科学館の建設が始まり工事用タワーが見える。江戸時代から市民に親しまれた四つ橋も、昭和46年に西横堀川が、同48年に長堀川が完全に埋め立てられて姿を消した。旧西横堀川の阪神高速道路高架下は駐車場、旧長堀通は長堀通となって、今では、長堀通の緑地帯部分に四ツ橋跡の顕彰碑が建つ。

木津川焼却場

昭和9年(1934) · 大正区

大正5年、大量ごみ焼却場として完成し、同時に福崎焼却場と明治40年完成の長柄焼却場は廃止された。大正7年に送風式炉を増設して処理施設の充実を図り、残量は港の埋立地に処分した。写真は昭和4年建設の第4焼却場。のち昭和55年に、大正工場(300トン/日)が完成したことにより、大阪市は可燃性ごみの全量焼却体制を達成した。さらに、同63年には破砕施設が完成し、粗大ごみを破砕したうえで焼却している。

地下鉄心斎橋駅

昭和9年(1934)頃 · 中央区 · 心斎橋駅 109 m

地下鉄の各駅は、それぞれ違った様式にデザインされ、シャンデリアや壁面タイルの色も変えられた。当初は1両で走ったが、ホームは10両編成に対応できるよう計画され、エスカレーターもある豪華さに人々は目を見はった。心斎橋駅は昭和8年5月の開業時は仮駅で、写真の本駅は同9年に開業した。現在、御堂筋線は10両編成で運転されており、また、平成9年に開通した長堀鶴見緑地線心斎橋駅が接続している。

天満青物市場

昭和10年(1935)頃 · 北区 · 天満橋駅 447 m

天満橋~天神橋間の大川北岸にあって繁盛した青物市場。「ねんねころいち 天満の市で」と子守唄にも歌われた。昭和6年中央卸売市場の開設により民営配給所となり、昭和10年に鉄骨スレート葺きの配給所の改築が完成し、戦時中は中央卸売市場の分場となるが、同20年の空襲で焼失した。昭和24年、天満卸売市場として旧東洋紡績天満工場跡地に移転し、跡地は、のち南天満公園として整備されている。

大川町線(土佐堀通)

昭和10年(1935)頃 · 中央区 · 淀屋橋駅 217 m

第1次都市計画事業で、淀屋橋西側の土佐堀川沿いに整備された大川町線で、街路樹が並ぶ歩道のほか、グリーンベルトが整備されている。沿道には、美津濃のビル(左手前)や住友銀行本店ビル、肥後橋交差点の大同生命ビルが見える。現在は、当時走っていた市電は廃止され、土佐掘川の護岸も高くなっている。また、昭和37年建築の12階建の住友ビル(旧称:新住友ビル)や、平成5年に建替えられた19階建の大同生命大阪本社ビルなど、沿道建物も大きく変化している。

大丸とそごう百貨店

昭和10年(1935)頃 · 中央区 · 心斎橋駅 178 m

大丸・そごうは、ともに心斎橋筋の代表的な老舗であるが、御堂筋に面して、大丸は、昭和8年に建築家のヴォーリズ設計の7階建の御堂筋側増築が完成、そごうは、同10年に建築家の村野藤吾設計の鉄骨鉄筋コンクリート造8階建の新館が完成。デザイン・色彩ともに対照的な百貨店ビルが壮麗な姿を競い、新しい都市景観をつくり出した。のち、そごう大阪店は、平成12年に閉店となり同15年取壊されたが、再生を図るため平成17年、14階建のそごう心斎橋本店を新築した。しかし、同21年に再び閉店となり、心斎橋におけるそごうの歴史を閉じ、大丸に売却され大丸心斎橋店北館となっている。

新大阪ホテル

昭和10年(1935) · 北区 · 肥後橋駅 299 m

市内最初の洋式ホテルは、明治初年に川口居留地内にできた外国人止宿所・自由亭ホテルが、同14年に中之島に支店を進出、後に大阪ホテルとなったのが草分けの時代。商都大阪の発展とともに本格的なホテルが要望され、昭和10年1月に、西の迎賓館といわれた鉄骨鉄筋コンクリート造8階建の新大阪ホテルが誕生した。のち、昭和48年に閉鎖し取り壊され、跡地は、昭和52年建築の13階建の住友中之島ビルとなっている。

道頓堀の夜景

昭和10年(1935)頃 · 中央区 · なんば駅 219 m

道頓堀の夜景はミナミの象徴で、数ある大阪の歌でも最も多く登場する。「赤い灯 青い灯 道頓堀の…」ではじまる道頓堀行進曲は、昭和3年に生まれた。なかでも、その代表格が「グリコの看板」。道頓堀川の戎橋そばに、初めてグリコのネオン塔ができたのは昭和10年。高さ33mのネオン塔には、トレードマークのランナーとグリコの文字が浮かび、一躍ミナミの名物に。戦時中に鉄材供出で撤去され、昭和30年に再建されて、以来、何度か改装されながら、大阪・道頓堀風景のシンボルとして、なくてはならない存在となっている。

御堂筋ガスビル付近

昭和10年代 · 中央区 · 淀屋橋駅 330 m

大阪瓦斯ビルヂング・通称ガスビルは、昭和8年に完成した、建築家である安井武雄設計の鉄骨鉄筋コンクリート造8階建のモダニズム建築のビルとして親しまれる。連続する深い軒の線や窓の輪郭、東南角にとられた大きな曲面が外観に特徴を与えている。戦時中は、エレベーター・手すり・窓枠なども供出され、白い外壁も黒く迷彩塗装されたという。その後、大阪ガス本社事務所拡張のため、昭和41年に、建築家である佐野正一設計による北館が一体的ビルとして増築されたが、御堂筋のビル群の中でも存在感を保っている。

城北公園

昭和10年(1935)頃 · 旭区

明治期の新淀川開さく後、旧中津川の蛇行部の河川敷が水面の多い空地となっていた部分を、公園として利用する工事が進められ、昭和9年5月に9.5haが城北公園として開設された。開設当時、園地の約3分の1は池で、園内には教材園・貸農園・温室・魚釣場などが設けられていた。戦後の再整備・拡張に際し、池の一部が埋め立てられたが、もとの池を利用して昭和39年に大規模な菖蒲園が設けられるなど、整備が進められて市民に親しまれている。

大日本紡績津守工場

昭和10年代 · 西成区

大日本紡績津守工場は、明治42年5月に尼崎紡績津守工場として西成郡津守村に開業し、大正7年合併により大日本紡績津守工場となった。昭和20年戦災をうけ、同27年には工場が閉鎖される。跡地はその後、大阪臨海工業用水道組合(のち企業団)津守浄水場・工業用水道西成浄水場・ニチボーリバーサイドプール(~昭和43年)などとなり、さらに、昭和49年に府立西成高校、同62年に西成公園が開設された。工業用水道浄水場は平成18年度末までに廃止されている。

市立美術館

昭和11年(1936) · 天王寺区 · 天王寺駅 366 m

市立美術館の開設は大正年間に計画され、住友家から寄付を受けた天王寺茶臼山本邸の敷地に建設することになった。昭和2年度に着工したが、財政事情や室戸台風のため工期が延び、同11年5月に完成開館し、落成記念展は帝国美術院展であった。地上3階・地下2階からなる本館地下には、付設の美術研究所がある。その後、昭和54年に全面改修整備を行い、平成4年、正面玄関前広場の地下部分に地下展覧会室を増設し、同17年には人にやさしいまちづくり事業によるスロープ整備などを行っている。

大阪大学工学部

昭和11年(1936)頃 · 都島区 · 京橋駅 245 m

大阪大学工学部(東野田学舎)は、大正10年に中之島から移転した大阪高等工業学校が、大阪工業大学を経て、昭和8年に大阪帝国大学工学部になったもので、昭和22年に新制の大阪大学となった。(写真は、昭和11年に建替えられた本館)。のち、大阪大学の吹田移転にともない、工学部も昭和46年に吹田キャンパスに移転した。その後跡地は、NTT西日本大阪研修センターと、昭和54年に移転開校した市立東高校となっている。

完成した御堂筋

昭和12年(1937) · 中央区 · 心斎橋駅 92 m

阪急梅田駅前から南海難波駅前までの延長4,027メートル、幅員43.6メートルの御堂筋は、地下鉄開通4年後の昭和12年5月に全長が完成した。4列のいちょう並木としゃれた街灯、グリーンベルトに区分された高速車道と緩速車道―。都心を南北に貫く御堂筋は、近代大阪のシンボルとなった。写真は長堀通以北の景観。昭和45年、都心の幹線道路の一方通行化によって、御堂筋は南行一方通行となっている。

完成した御堂筋とビル群

昭和12年(1937)頃 · 中央区 · 淀屋橋駅 27 m

御堂筋の高麗橋通付近から北を望む写真で、中央一番高いビルが昭和6年竣工の煉瓦造7階建の日本生命本店1号館、手前が2号館、左奥には大阪市庁舎も見える。瓦屋根の商家も見える中で、すでに近代大阪のビジネス街の中心としての景観が生まれてきている。その後、昭和13年に1号館を建替えて、鉄筋コンクリート造7階建の本館第1期が完成した。その後、昭和29年に本館の外壁を御影石貼りとし、同34年に煉瓦造の2号館を建替えて9階建の南館を建築、さらに、同37年には、本館北側に増築して白亜の重厚な本館全体が完成した。

電気科学館

昭和12年(1937) · 西区 · 四ツ橋駅 174 m

電気事業市営10周年を記念し、科学知識の向上と電気利用の普及を目的に、昭和12年3月、四つ橋に市立電気科学館が完成、最新の技術を導入した展示と星の動きをドームに映すプラネタリウムが人気を博した。1階には市電の店という電化製品の陳列所がつくられた。平成元年、中之島に新たに市立科学館が開設されることになって、電気科学館は閉鎖となり、その後は市立中央図書館の建替えに伴い、平成4~8年仮設図書館として利用後、平成10年に取り壊された。跡地には、ホワイトドームプラザというホテルが建設されている。

大阪市電気局庁舎

昭和12年(1937) · 西区 · ドーム前千代崎駅 504 m

昭和5年3月、西区境川に完成した大阪市電気局庁舎、鉄筋コンクリート5階建ての重厚な建物である。昭和17年に、電気局の配電事業が関西配電に移管され、昭和20年交通局と改称されて交通局庁舎となった。そののち、大阪ドームを核とする岩崎橋地区土地区画整理事業の施行に伴って、老朽化した庁舎を建替えることとし、平成16年、庁舎の隣に鉄骨鉄筋コンクリート造17階建の交通局新庁舎を建て、旧庁舎跡には、平成19年に鉄筋コンクリート造8階建の消防局新庁舎・西消防署併設施設を建設している。

中央公会堂

昭和13年(1938) · 北区 · 淀屋橋駅 399 m

赤レンガの壁面、ドーム型の屋根、円窓など華麗な装飾に富んだネオルネサンス様式の建物。株仲買人の岩本栄之助氏の寄付により、大正7年11月に完成した。開館以来、中央公会堂は、近代大阪の歴史に残る様々な催しの舞台となってきた。その後、老朽化が進んで一時取り壊しの議論も出るが、昭和63年に永久保存が決定され、市民募金も取り組まれた。公会堂としてより一層活用できるよう、耐震補強・バリアフリー化や、建設後の改変個所を当初の姿に復元するなどの、保存・再生工事が平成14年に完成、大阪の文化のシンボルとして甦り、重要文化財にも指定された。

四つ橋文楽座

昭和13年(1938) · 中央区 · 心斎橋駅 104 m

四つ橋文楽座は、旧近松座を改築して昭和5年に開場した人形浄瑠璃劇場である。鉄筋コンクリート造の近世式外観で、1・2階の桟敷と椅子席の平土間は約850人収容。昭和20年戦災で焼失し同21年に再興したが、同31年に道頓堀文楽座(のち朝日座と改称)に拠点を移した。その後、文楽協会が発足して、文楽は行政・経済界などの支援をうけるようになり、同59年には、日本橋に国立文楽劇場が開場した。四つ橋文楽座の跡地は、平成23年現在はビル・駐車場となっている。

1940年代

津守下水処理場

昭和15年(1940) · 西成区

市岡実験処理場の成果を基礎に、昭和6年、急を要する都心部を対象に都市計画下水処理事業に着手し、昭和15年、中部の津守下水処理場と北部の海老江下水処理場が完成した。これによって、それまで下水管で直接河川に放流していた下水が、浄化処理したうえで河川に放流されることになった。最近では、PFI(民間資金・技術力等活用)事業により、下水汚泥の処理過程で発生する消化ガスを燃料として発電を行い、処理場の使用電力の一部にあてたり、場内の緑化などの取り組みも進めている。

廃墟の大阪陸軍造兵廠跡

昭和20~23年頃 · 中央区 · 大阪ビジネスパーク駅 572 m

夏草の生い茂る廃墟―陸軍兵器工場の巨大な基地であった、大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、昭和20年8月14日爆弾の集中攻撃による空襲で壊滅した。明治12年から続いた大阪砲兵工廠の旧名で知られるこの施設は、昭和15年に陸軍造兵廠大阪工廠から大阪陸軍造兵廠に改称された。昭和23年に接収が解除となり、廃墟の施設の撤去が開始され、同33年から大阪城公園(杉山地区)としての整備が始まった。同45年に整備が完成して、今では市民の森の樹々も見違えるほどに大きく育っている。

旧大阪陸軍造兵廠の戦災跡

昭和24年(1949) · 中央区 · 大阪ビジネスパーク駅 278 m

昭和20年8月14日、大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、米軍の戦略爆撃機B-29の猛爆撃を受け、敷地118haの巨大な兵器工場は壊滅した。昭和27年、造兵廠跡地の接収解除後に、一帯は払い下げられて工場・倉庫などが建てられ、一方で、大阪城公園の整備も進められていく。その後、この26haの区域において大阪ビジネスパーク(OBP)計画が進められる。昭和51年、土地区画整理事業に着手し、スーパーブロックの街区が整えられた。その後、昭和58年に環状線大阪城公園駅と大阪城ホールの開業、大阪城新橋の開通などを追い風に、昭和61年にツイン21と富士通・ニューオータニのビルが完成した。その後も、つづいてKDDI・読売テレビ・キャッスルタワー・住友生命・IMP・クリスタル・東京海上などのビルが完成している。

1950年代

天王寺・阿倍野ターミナル

昭和25年(1950) · 天王寺区 · 天王寺駅 132 m

国鉄天王寺駅前の風景で、右側は近鉄阿部野橋駅と百貨店である。昭和37年に8階建の天王寺ステーションビル(天王寺民衆駅)が完成し、天王寺ステーションデパートと都ホテル大阪が開業した。同40年に、ステーションビルと近鉄をつなぐ阿倍野歩道橋が完成し、同45年には交差点部の回廊式になった。のち、ステーションデパートは、平成21年にリニューアルし、同23年には天王寺ミオプラザ館に名称変更した。平成25年に阿倍野歩道橋はabenoの頭文字aを図案化した形状に架け替えられた。また、近鉄は平成26年に超高層複合ビル・あべのハルカスへ建て替えられた。

大阪ガス岩崎橋工場

昭和25年(1950) · 西区 · ドーム前千代崎駅 280 m

明治38年に大阪瓦斯岩崎工場が開業し、ここで製造されたガスが市内に送られた。写真の左奥には、交通局庁舎・市電九条車庫なども見える。(のち、岩崎工場は供給所となる)。平成4年、岩崎橋地区に多目的ドームが建設されることになり、大阪ガス・関電・交通局などの区域で土地区画整理事業による基盤整備が進められた。平成9年3月には、多目的全天候ドーム「大阪ドーム」が完成・オープンし、プロ野球をはじめ各種のイベントが開催されている。さらに、商業施設等のほか、ドームシティガスビル・交通局庁舎・消防局庁舎などがつぎつぎと完成し、地下鉄長堀鶴見緑地線につづき,平成21年には阪神なんば線も開通した。

地下鉄の延長

昭和26年~27年 · 阿倍野区 · 文の里駅 95 m

戦時に中断していた地下鉄1号線の延長工事を再開、昭和26年に天王寺~昭和町、同27年に昭和町~西田辺間が開通した。資材不足と資金難で、トンネル上部の構築をあとに残したため、青空地下鉄と呼ばれた。その後、昭和33年に、あびこ筋の掘割区間の覆蓋工事を行うとともに、同35年には、西田辺~我孫子間が開通した。さらに、同62年に、我孫子~中百舌鳥間5kmの延長が完成し、堺市に中百舌鳥検車場が開設された。

焼跡に出現した飛行場

昭和27年(1952) · 西区 · 本町駅 372 m

昭和20年、靱の戦災跡に軍用飛行場が設けられ、戦後、四つ橋筋から西の焼野原一面が進駐軍に接収され、滑走路約700mの小型飛行機発着場となっていた。昭和27年に接収解除されたため、飛行場跡を、失業対策事業により公園として整備を進め、同30年10月に、花壇や噴水・グランド・テニスコート・遊具などが整備された靱公園が開園した。のち靱公園は、平成7年に5000人収容のセンターコートなどをもつ靱テニスセンターが整備され、同8年にはバラ園も整備された。

市電今里車庫

昭和27年(1952)頃 · 東成区 · 今里駅 246 m

市電今里車庫は、市電全盛期の昭和2年に開設された。のち昭和44年、大阪市の市電全廃にともなって廃止となり、跡地は昭和47年に市バス東成営業所となった。その後、平成22年に建替えられて、交通局市バス東成車庫・技術事務所と、東成区民センター・東成図書館の8階建複合施設が建設されている。区民センターには、600人収容の大ホールや小ホールのほか、実習室・スタジオなども設けられている。

第一生命ビル

昭和28年(1953) · 北区 · 西梅田駅 131 m

大阪駅前の第一生命ビルは、12階建(軒高41m)の計画であったが、当時の建築基準法上の特例許可が必要となるため、9階建として見切り着工し昭和27年に一応完成したという。直後に許可を得て、昭和28年に12階建ビルが完成したもので、いわば当時の31m規制のもとでの特例による高層ビル第1号であった。その後、平成2年に建替えられ、現在は敷地東側に公開空地をとった19階建の大阪第一生命ビルディングとして、大阪駅のほぼ正面の位置に建つ。

西成区役所

昭和29年(1954) · 西成区 · 岸里駅 44 m

区勢の発展と事務量増加で、木造の区役所庁舎の建て替えが望まれていたなかで、写真は昭和29年に完成した、戦後初の鉄筋コンクリート造りの西成区役所。のち、老朽化に伴う建替えにより、平成16年に、鉄骨鉄筋コンクリート造8階建の西成区役所新庁舎が完成した。新施設は、西成区役所・保健福祉センター・在宅サービスセンター・岸里駅自転車駐車場の複合施設となっている。

市立工業研究所

昭和30年(1955)頃 · 北区 · 扇町駅 90 m

市立工業研究所は、工業の科学的研究と工業技術の高度化を図る目的で、大正5年11月に、北区北野牛丸町に開設したが、大阪駅の拡張のため、12年に北扇町に新築移転した。必要に応じて企業の設備利用の便を図り、委託研究も行い、中小企業の多い大阪の産業界に大きく貢献してきた。その後、昭和57年に森之宮に新築移転し、跡地には、公有地の有効活用を図るため、旧交通局病院跡地などとあわせた土地信託事業によって、平成9年、扇町キッズパーク(キッズプラザ大阪、関西テレビ)が開業している。

大阪市編入を祝う「みおつくし」

昭和30年(1955) · 平野区

昭和30年4月3日、大阪市編入を記念して加美南部小学校の児童たちが校庭に集まって描いた「みおつくし」。隣接6ヵ町村が合併されたうちの、加美村の加美南小学校の様子だが、当時、大阪市への編入を待ち望んでいたことの率直な現われと言えるのだろう。大阪市にとっても、昭和30年代は急激な都市化の進展の時期にあたり、加美地域でも、この時期から多くの市営住宅が建てられるなど、編入された町村も大きな変化を迎えていくことになった。

杭全町踏切

昭和30年代 · 東住吉区

道路交通の安全確保と渋滞解消のため、市内の主要踏切りの立体化が推進された。写真は国鉄関西本線の杭全町踏切で、まだ蒸気機関車が走っている。その後、昭和42年に、関西本線の天王寺~平野間が高架化され、開かずの踏切として有名だった杭全踏切はようやく消えることになった。さらに同43年に、すぐ南の五差路の杭全交差点に回廊式の杭全歩道橋も設置され、自動車交通の利便は大きく向上したが、一方で最近は、五差路交差点に起因する、自転車利用者にとっての不便や危険性などが問題となっている。

中島大水道

昭和30年(1955)頃 · 東淀川区

中島大水道は、度重なる水害と水はけの悪さに耐えかねた北中島22ヵ村の村民たちが、延宝6年(1678)に自力で開さくしたものである。そののち、水利組合から昭和18年に市に移管された。大水路はその後、機能低下や水質悪化のために埋め立てまたは暗渠化されて、東海道新幹線・十三バイパス用地などに利用されている。現在、西淡路5丁目の新幹線高架のそばに中島大水道顕彰碑が建てられている。

博愛社

昭和30年(1955)頃 · 淀川区

博愛社は、明治23年に創立され、明治32年に現在の地に移転して、児童保護をはじめとして学校・乳児院・母子ホームなど、さまざまな社会事業を行ってきた。この聖贖主教会礼拝堂は、建築家のヴォーリズ設計で昭和11年に完成している。昭和27年、この地を本部とする社会福祉法人となってしだいに施設を拡充し、現在では、児童養護施設・保育園・特別養護老人ホーム・ケアハウス・介護サポートセンターなどの事業を行っている。

府立北野高校

昭和30年(1955)頃 · 淀川区

北野高校は、明治6年に設立された欧学校を前身とし、変遷して大阪府中学校・堂島中学校などと改称、さらに明治35年北野芝田町に移転して、府立北野中学校として長く北野の地にあった。その後、昭和6年に十三南之町(府立修徳館跡)に移転し、昭和23年学制改革によって府立北野高校となる。昭和37年・55年には校舎新館が完成、さらに、平成15年に校舎改築工事が完成している。

鐘淵紡績中島工場

昭和30年(1955)頃 · 東淀川区

鐘淵紡績中島工場は、明治32年に、当時の西成郡西中島村に開業した。戦災をまぬがれ、戦後は新工場の増設とともに、紡織一貫工場として操業してきた。のちの繊維不況とともに工場は縮小・閉鎖され、東側跡地には、昭和50年頃から約800戸の大規模マンション(エバーグリーン淀川)が建設され、西側跡地には、昭和53年から住宅供給公社淡路コーポ、市営東淡路第2住宅、さらに平成5年に、市立女性いきいきセンター北部館(クレオ大阪北)、東淀川スポーツセンターなどが開設されている。

淀川キリスト教病院

昭和30年(1955)頃 · 東淀川区

淀川キリスト教病院は、昭和30年に、当時医療環境に恵まれなかった淡路の地に、淀川キリスト教診療所として開設された。昭和35年に淀川キリスト教病院となり、その後のあいつぐ拡張によって、各診療科建物の分散・老朽化が課題となってきた。さらに都市計画道路事業による施設移転の必要もあり、昭和57年から改築を始め、平成14年に増改築による新病院が完成し、つづいて新施設も開設してきている。

市電都島車庫

昭和30年代 · 都島区 · 都島駅 225 m

市電都島車庫は、大正11年に桜の宮水源地跡に運輸事務所・変電所とともに建設されたが、昭和20年戦災により焼失する。翌年に縮小して再開するが、昭和44年の市電全廃に伴い都島車庫も廃止となった。跡地には平成5年、鉄骨鉄筋コンクリート造18階建の市立総合医療センターが開設された。総合医療センターは、既設の市立桃山病院・桃山市民病院・城北市民病院・母子センター・小児保健センターを統廃合して開設されたもので、高度専門医療機能を有する基幹病院である。

湊町駅

昭和30年(1955)頃 · 浪速区 · なんば駅 165 m

湊町駅は、大阪鉄道のちの国鉄関西本線の始発駅として、明治22年に開業された。その後、貨物駅の機能が大きくなってくるが、のち、貨物取扱量の減少から、昭和60年に貨物の取扱いが廃止された。以降、ヤード跡地を中心とした約17.5haの区域について、関西国際空港と直結する特性をいかした整備プロジェクトが進められる。湊町駅はJR難波駅と改称され、連立事業により、平成8年OCATビル(複合交通センター)に地下駅として開業。街は「ルネッサなんば」と名づけられ、中核施設のOCATビルのほか、本格的な音楽ホールをもつ湊町リバープレイス、商業施設・マンションなどが完成している。

大阪大学南校

昭和30年(1955)頃 · 阿倍野区 · 西田辺駅 686 m

大正11年に旧制の大阪高等学校が開設され、鉄筋コンクリート造3階建の校舎が新築された。昭和24年大阪大学に包括されて、大阪大学一般教養部南校となるが、昭和35年北校と統合されることになる。南校の跡地には、昭和37~40年にかけ、住宅公団阪南団地の5~7階建の住宅が800戸以上建設された。その後、平成21年に建替えられて、東側が8~13階建のサンヴェリエあべの阪南団地となり、旧敷地の西側・南側については、公募による土地譲渡が実施された。

難波駅前の地下街建設

昭和31年(1956) · 中央区 · なんば駅 147 m

昭和31年にナンバ地下センターの建設が始まり(写真左側は南街会館)、同32年12月完成オープン。大阪初の本格的な地下街の出現であった。その後、ウメダ、アベノなど次々に地下街が建設されていく。のち、ナンバ地下センターも、昭和49年に、南側への延伸とともに、100日間全店休業して全面改装し、「なんなんタウン」と改称してオープンした。さらに平成18年に、全面リニューアルして、「NAMBAなんなん」と改称オープンした。

市立大学付属病院の新館

昭和31年(1956) · 阿倍野区 · 天王寺駅 404 m

医学専門学校付属病院は、戦後市立医科大学病院に発展。30年市立大学医学部付属病院となり、同31年4月に地下2階・地上7階建の新館(のち北館)が完成した。その後、同36年にガンセンター、43年に7階建の第2新館(のち東館)が完成した。そののち、建て替えのため本館・南館・北館・東館を順次解体し、平成5年に、鉄骨鉄筋コンクリート造18階建の新病院をオープンした。なお、大阪市立大学は平成18年に公立大学法人大阪市立大学となっている。

西淀川区役所

昭和32年(1957)頃 · 西淀川区

西淀川区役所は、昭和32年、歌島橋交差点角に鉄筋コンクリート造3階建の庁舎が完成した。その後、老朽化にともない、平成17年に建替えられて、西淀川図書館と水道局サービスステーション、災害用備蓄倉庫併設の複合施設として、鉄骨鉄筋コンクリート造地下2階地上6階建の新庁舎が完成した。新庁舎は、平成9年に開通したJR東西線御幣島駅とつながる、サンクンガーデンを庁前広場に配置し、区民が憩える場としている。

城北市民病院

昭和32年(1957)頃 · 旭区 · 関目高殿駅 277 m

城北市民病院は、昭和28年12月、北東地域における中核病院として開設され、昭和52年からは全日救急医療も実施してきたが、医療施設の再編整備に伴い、平成5年に総合医療センターに統合された。跡地には、平成14年、おとしよりすこやかセンター北部館・旭屋内プール・城北市民学習センターの複合施設が建設され、8階建施設の上部は住宅供給公社のコーシャハイツ高殿となっている。

港区の盛土工事(市立運動場付近)

昭和32年(1957) · 港区 · 朝潮橋駅 356 m

港地区の復興土地区画整理事業は、戦災で市街のほとんどを焼失し、さらに台風高潮災害に襲われた地盤沈下地域を、全域で2~3mの盛土嵩上げを行うという他に例を見ない事業であった。盛土は写真のマンホールの高さまでで、奥に見えるスタンドは大正12年開設の市立運動場で、このあと昭和36年に廃止となる。ここには、昭和31~43年にかけて国際見本市恒久展示場が建設されるが、その後、見本市会場は昭和60年に、インテックス大阪が南港に建設されて移転する。跡地には八幡屋公園が拡張整備され、平成8年には、丘状の覆蓋地下式の中央体育館とともに大阪プールが建設されている。

関西電力春日出第2発電所

昭和33年(1958)頃 · 此花区 · 弁天町駅 1062 m

関西電力春日出第2発電所は、大正11年に、大阪電灯春日出第2発電所として完成した。高さ70mの8本煙突が市民の目を引いていたが、昭和34年に建替えのため廃止され、煙突も姿を消した。同38年に新たに本格的な春日出発電所が完成したが、のち平成14年に廃止となって、翌年取り壊された。その後跡地には、ホームセンターのコーナンとディスカウントストアのラ・ムーの店舗が開業している。

阪神野田踏切

昭和33年(1958) · 福島区 · 野田阪神駅 50 m

阪神電鉄が野田駅西の国道2号と交差する野田阪神の踏切は、道路の中央で2つに分かれている遮断機があり、長く交通の難所となっていた。関係者の努力の結果、昭和32年、長年の懸案であった立体交差化のための高架工事に着手されることになる。昭和36年7月にまず上り線が、つづいて11月に下り線が開通し、翌年9月には全工事が完了して、大阪名物と言われた開かずの踏切が解消された。その後、昭和56年には、阪神電鉄高架と併行して阪神高速道路大阪西宮線の高架が完成している。

国際見本市会館(コクサイホテル)

昭和33年(1958)頃 · 中央区 · 堺筋本町駅 417 m

国際見本市会館は、昭和26年に北半部が完成して開設された、見本市会館・ホテルの施設であり、同29年4月に、第1回国際見本市が開催された。これは、ヨーロッパ以外で開催された初の国際見本市で、以降、東京と大阪で交互に開催されることになる。同33年には、会館の南半部が増築された。その後、見本市会場は八幡屋の国際見本市恒久展示場に移り、国際見本市会館の施設はコクサイホテルとなるが、平成11年に閉鎖された。跡地には平成18年に最上階に天然温泉施設をもつ、シティプラザ大阪ホテルが開業している。

生野区役所

昭和33年(1958) · 生野区

生野区役所は、戦後建てられた木造庁舎の狭隘化に伴い、昭和32年に鉄筋コンクリート造3階建の庁舎に建替えられた。その後の老朽化・狭隘化により、平成17年には、鉄筋コンクリート造6階建の庁舎に建替えられた。新庁舎には、水道局サービスステーションを併設するとともに、別棟になっていた保健福祉センターも庁舎内となって、敷地の集約化が図られている。

市立社会福祉会館

昭和34年(1959) · 天王寺区 · 谷町九丁目駅 598 m

昭和34年、東高津町に市立社会福祉会館が開設され、福祉団体の活動や、各種相談等が行われてきた。昭和62年に建替えられて、市立社会福祉センターと改称され、大小の会議室利用、福祉関係団体の活動拠点、各種の相談事業や情報提供などの業務が行われている。24階建の上部は住宅供給公社・アーバンヒル上町となっている。

1960年代

大阪商工会議所

昭和35年(1960) · 北区 · 肥後橋駅 573 m

大正14年12月に新築された大阪商業会議所は、ルネサンス様式で鉄筋コンクリート造り。2年後の昭和2年に商工会議所法が公布されて、大阪商工会議所となり、昭和8年2月には、3階部分が増築された。その後、昭和43年に、内本町橋詰町に新築移転された。跡地は、昭和57年着工の8階建の大阪電話局ビルの上に増築したという、19階建のNTTテレパーク堂島第2ビルが、平成14年に完成している。

埋立前の長堀川

昭和35年(1960) · 中央区 · 心斎橋駅 134 m

大阪の船場と島之内を隔てる長堀川。舟運の衰退と水質汚濁進行で機能を失った河川対策として、長堀川の四つ橋以東が昭和35年~37年に埋立てられる。長堀駐車場(900台・地下駐車場)は同39年に完成し、四つ橋以西の長堀川は同41年~48年に埋立てられた。のち地下鉄長堀鶴見緑地線の計画が具体化し、平成9年、地下鉄長堀鶴見緑地線とともに、地下街・クリスタ長堀と長堀駐車場が開業した。クリスタ長堀は、堺筋までの全長730m、トップライトから自然光も採り入れて、ファッション・雑貨・グルメなどの店舗100店。新駐車場は地下3階の自走式で収容台数1,030台。

十三市民病院

昭和35年(1960)頃 · 淀川区

戦前の市立総合病院は2ヵ所であったが、戦後保健医療の充実を期し、昭和28年12月までに、北・東・桃山・今宮・住吉・日本橋・十三・城北の8市民病院を整備した。写真は同35年ごろの十三市民病院。十三市民病院は、昭和24年に開設し、同33年に鉄筋コンクリート造5階建に建替えられた。そののち、平成14年に、野中北二丁目に新病院が完成し移転された。跡地には、鉄筋コンクリート造5階建の淀川区役所・保健福祉センター・淀川屋内プールの複合施設が建設されている。

市立中央図書館

昭和36年(1961) · 西区 · 西長堀駅 93 m

昭和34年の市制70周年記念事業として、西区北堀江に着工した市立中央図書館は、同36年11月に待望の開館。全館開架式にするなど最新の設備を誇り、電話による調査・照会サービスも開館時から行った。そののち、老朽化に伴い、建替えられることになり、平成4年から旧電気科学館を仮設図書館として建替え工事を進め、平成8年11月、鉄骨鉄筋コンクリート造6階建・地下6階の新・中央図書館が開館した。7,840㎡の閲覧室と、地下書庫・蔵書数171万冊を備える。

防潮堤かさ上げ工事

昭和37年(1962) · 北区 · 淀屋橋駅 368 m

写真は昭和37年の、中之島堂島川左岸の大江橋西側の防潮堤かさ上げ工事。昭和36年9月16日、大阪を襲った第2室戸台風の高潮によって、堂島川の防潮堤を越えてあふれた水で、都心の中之島のビル街も浸水した。その苦い経験から、海岸から河川に至る防潮堤の全面かさ上げが行われた。かさ上げされた防潮堤によって、以後中之島は守られるが、高い護岸に囲まれ、水都の趣から遠くなる。その後、昭和61年に護岸と一体の中之島遊歩道(大江橋~渡辺橋南詰間)が完成し、その後中之島地域につながっていく。

市立婦人会館

昭和37年(1962) · 天王寺区 · 四天王寺前夕陽ケ丘駅 197 m

婦人の社会進出が進むなかで、昭和37年10月、婦人の教養・文化のセンターとして、婦人会館が天王寺区に開館。講演・研究会・サークル活動など盛んに利用されている。そののち、廃止となり、跡地には、平成13年に市立女性いきいきセンター中央館(クレオ大阪中央)が開館した。4階建・地下2階の施設で、1000人収容のホール、展示ギャラリー、セミナーホール・音楽室、会議室・研修室などを備えている。クレオ大阪は市内5ヵ所に設置されており、男女共同参画基本法の制定にともなって、同13年に女性いきいきセンターは、男女共同参画センターと改称された。

大阪気象台

昭和37年(1962) · 生野区

昭和8年、勝山通の府立農学校跡に、府立大阪測候所が新築移転された。レーダー塔がそびえる鉄筋コンクリート造の建物であった。国営移管のため、昭和13年に大阪測候所は中央気象台大阪支台となり、さらに翌年、「大阪管区気象台」と改称される。その後昭和43年には、大阪合同庁舎2号館の完成に伴い、大阪管区気象台は法円坂町に移転し、35年間にわたった勝山通での気象観測の幕を閉じた。跡地は、御勝山南公園となり、気象台跡の碑が建てられている。

連続機械式の住吉焼却工場

昭和38年(1963) · 住之江区 · 住之江公園駅 634 m

人口の回復と生活の向上で排出されるごみは急激に増加。これに対応し、昭和38年2月に全国初の連続機械式ごみ焼却施設、住吉工場を完成させた。のち、老朽化に伴い、昭和63年に加賀屋に住之江工場が完成して、住吉工場は廃止となる。跡地は現在、西南環境事業センターとして、ごみの収集・運搬・減量・美化・啓発等の事務所、ごみ収集車車庫などとなっている。

赤川鉄橋

昭和38年(1963)頃 · 都島区

昭和4年3月、城東貨物線の淀川橋梁が開通したが、当初単線運行とされて、線路の上流側の部分に、歩行者・自転車用として木造の赤川仮橋が設けられた。明治の新淀川開削により600mも隔てられることになった、両岸の住民の日常の生活動線として、地元では「赤川鉄橋」と呼ばれ親しまれてきた。現在事業中のおおさか東線により、淀川橋梁も旅客用に複線化されることになるが、歩行者橋の取り扱いについては、現段階では未定となっている。

環状線今宮駅付近

昭和38年(1963)頃 · 浪速区 · 大国町駅 495 m

国鉄大阪環状線は、昭和36年4月に、天王寺~西九条間がつながり、今宮駅もこの時開設された(同39年3月環状運転開始)。以来、この付近は盛土区間となっていたが、その後、湊町開発の関連事業として、JR関西本線連続立体交差事業と今宮土地区画整理事業が進められることとなる。これによって、平成8年に、JR難波駅(旧湊町駅)の地下化とあわせて、今宮駅付近の高架化が完成した。

地下鉄と高速道路の同時施工

昭和39年(1964) · 西区 · 肥後橋駅 195 m

阪神高速道路大阪池田線は昭和37年起工、一方地下鉄四つ橋線は同38年に着工した。写真は、同39年春ごろの肥後橋の工事現場で、左に阪神高速道路の橋脚が見える。その後昭和40年に、阪神高速道路・梅田~道頓堀間、地下鉄・西梅田~大国町間が開通した。地下鉄工事に伴う肥後橋の架け替えも同41年に完成し、幅員が27mから29mに拡幅された。のち肥後橋は、平成6年に橋面と高欄部の改装が行われた。

大阪駅前市街地改造事業

昭和39年(1964)頃 · 北区 · 東梅田駅 241 m

大阪駅前市街地改造事業は、当初予定していた土地区画整理事業の立体換地手法から、新たに法制化した市街地改造法の事業に切り替えて実施したものである。昭和36年に都市計画決定を行い、昭和40年に第1棟ビルに着工、西半分が同44年、東半分が同45年に完成、その後、当初計画の見直しとあわせ、第2~第4ビルに順次着工していく。こうして昭和58年5月、12階建・16階建・34階建・25階建、総延床42万㎡の4棟のビルが完成した。この20年に及ぶ事業によって、御堂筋から大きくセットバックしたオープンスペースが設けられるなど、大阪の表玄関にふさわしい都市景観が実現した。

小児保健センター

昭和40年(1965) · 東成区 · 緑橋駅 346 m

小児疾患の早期発見・予防を含む総合医療を行う関西唯一の専門病院として、昭和40年10月、鉄筋コンクリート造5階建の小児保健センターが開設された。そののち、小児保健センターは、桃山・城北市民病院などとともに、平成5年に市立総合医療センターとして統合された。その後、小児保健センターの跡地には、平成10年に、おとしよりすこやかセンター東部館、東成スポーツセンターが建設されている。

長吉出戸南の市営住宅

昭和40年(1965) · 平野区 · 長原駅 658 m

昭和26年4月、住宅政策の根幹を成す公営住宅法が制定され、市の公営住宅建設が本格化した。職住近接、土地の高度利用、不燃化促進を基本とし、中・高層住宅が建設された。市営長吉出戸南住宅は、昭和40年に建設された、鉄筋コンクリート造5階建住宅団地である。そののち、建て替えにより、平成17年から順次、鉄骨鉄筋コンクリート造14階建に高層化されている。

毛馬洗堰

昭和40年(1965) · 都島区

新淀川の開削に伴って、明治43年に、新淀川から大川(旧淀川)の入り口部に設けられた洗堰・閘門。流量調節用の煉瓦造の「毛馬洗堰」と、写真の奥(右岸)は、水位差のある両川の船の通航のために、明治40年に完成した「毛馬閘門」と、大正7年に完成した第二閘門となっている。のち、昭和49年に大川左岸側に新しい「毛馬閘門」が完成し、昭和58年には新しく「毛馬水門」「毛馬排水機場」が完成した。なお旧閘門は昭和51年に廃止され、第一閘門旧跡(重要文化財に指定)周辺は、公園として整備されている。

三菱金属鉱業大阪製錬所

昭和40年(1965)頃 · 北区 · 南森町駅 885 m

三菱金属大阪製錬所は、明治29年に宮内省所管の大阪製錬所の払い下げを受けた三菱合資会社が、大阪支店付属大阪製錬所としたのに始まる。粗銅の電気精錬工場として、国内最大の能力を誇ってきたが、時代とともにその役割を終え、平成元年に閉炉される。跡地は、「大阪アメニティパーク(OAP)」として、商業施設・オフィス・ホテル・住宅などの大規模な複合機能を導入したまちづくりがすすめられ、平成8年に39階建のOAPタワーが完成したのをはじめ、帝国ホテル大阪や超高層マンションなどが完成している。

道頓堀川と戎橋

昭和40年(1965)頃 · 中央区 · なんば駅 240 m

戎橋は、道頓堀に架かる鉄筋コンクリート造のアーチ橋で、大正14年にそれまでの鉄橋から架け替えられた。繁華街の中心にふさわしい優美なデザインが採り入れられ、アーチ部と高欄部が一体で花崗岩で化粧され、多くの市民や大阪を訪れる観光客に親しまれる場所となった。その後、老朽化が進行したため、道頓堀川水辺整備事業に併せて、デザインコンペのもとに架け替えが行われ、橋上広場からスロープ・階段で水辺の遊歩道に降りられる、新しい戎橋が平成19年に完成した。

市営古市中住宅

昭和40年(1965) · 城東区 · 新森古市駅 613 m

昭和26年に公営住宅法が制定され、それに基づいて大阪市は公営住宅建設三ヵ年計画を策定、同28年度から本格的に住宅建設を進めた。市営古市中住宅は、昭和30年代に完成した鉄筋コンクリート造等の、800戸を越える大規模住宅団地である。その後、老朽化に伴って順次建替えが行われ、4階建~14階建の変化に富んだ住棟構成の、古市東住宅に生まれ変わっている。

大阪市消防学校

昭和40年代 · 城東区 · 鴫野駅 295 m

大阪市消防学校は、昭和26年に、法円坂町から西鴫野の旧鐘紡鴫野工場跡に新築移転(木造2階建)してきたものである。その後昭和51年に複雑・多様化する消防業務への対応を図るために、東大阪市三島に移転して、施設等の充実を図っている。跡地には、昭和54・55年に住宅供給公社・鴫野コーポの8階建・14階建の高層住宅が建設されている。

松下精工

昭和40年代 · 城東区 · 蒲生四丁目駅 516 m

松下精工は、大正4年に川北電気企業社の電機製造工場として設立、変遷ののち、日本電気精器大阪製造所、昭和31年大阪電気精器となり、同37年に松下精工と改称されたものである。その後、平成14年に松下電器の完全子会社となってのち移転する。跡地には、平成19~21年にかけて、タイムズ・ピーススクエアという15~19階建1000戸の大規模マンションが完成している。

椿本チエイン

昭和40年代 · 鶴見区 · 横堤駅 571 m

昭和16年、椿本チヱィン製作所の工場が鶴見町に完成し、以後、チェーンとコンベア業界のトップメーカーとして発展し、昭和45年には椿本チエインと改称した。のち、第1・第2工場の閉鎖移転が順次進められることになり、平成13年までに、京田辺工場に全面移転した。第1工場跡地には、平成8年に大型商業施設のダイヤモンドシティ・リーファが開業し、のちイオンモール鶴見緑地と改称して、地域の商業拠点となっている。

市営鴫野第1住宅

昭和40年代 · 城東区 · 鴫野駅 430 m

市営鴫野第1住宅は、昭和24年度に鐘紡鴫野工場跡に建設された木造平屋建の市営住宅である。その後、昭和49年度からの建替事業により、市営住宅は9階建に高層化され、敷地の集約化がすすめられた。それにあわせ地域の整備計画が進められ、写真の手前部分は小学校および公園用地とされ、昭和55年に鴫野小学校が移転開校し、鴫野公園とそのグラウンドも開設された。

関西電力大阪発電所

昭和40年(1965)頃 · 住之江区

関西電力大阪発電所は、関電の電力の半分近くを消費する大需要地である、大阪地区における発電所として建設されたものである。昭和34~35年に、1~4号機(合計62.4万kw)が運転開始された。のち平成15年に廃止となり、跡地24haについて、府・市の産業集積促進地域の指定をうけた。平成19年に、4haに旭硝子大阪事業所が開業、14.7haを松下電池のリチウム二次電池の大型工場とし、パナソニックエナジー社住之江工場が、平成22年に完成開業している。

桜宮橋

昭和42年(1967) · 北区 · 京橋駅 739 m

昭和5年9月に完成した桜宮橋は、第1次都市計画事業によって架けられた、橋長188メートルの戦前では日本最大のアーチ橋。建築家の武田五一が意匠指導。銀色の塗装を施したことで銀橋と呼ばれ、大川と桜之宮公園の景観と一体化した美しい姿を見せている。のち平成19年に、道路拡幅にあわせて、上流側に新桜宮橋が建設された。建築家の安藤忠雄の設計による新桜宮橋は、旧橋より橋長が長いが高さを合わせたデザインとなっている。

木津川千本松渡し

昭和42年(1967)頃 · 大正区

木津川の千本松渡しは、大正区南恩加島と西成区南津守を結ぶ市営の渡船である。昭和48年に、両岸に2階建ループ式の高架坂路をもつ、橋長323.5m・桁下34mの千本松大橋が完成し、その形からめがね橋とも呼ばれている。なお、歩行者・自転車などの便から、架橋後も千本松渡しは存続されることになり、今も通勤・通学の足として多くの住民に利用され続けている。

柴谷平野線(南港通)

昭和42年(1967) · 東住吉区 · 駒川中野駅 76 m

都市計画道路・柴谷平野線(南港通)の針中野付近の工事中の写真であり、正面に近鉄南大阪線の電車が見える。また、拡幅道路予定線の右手は南海電鉄平野線である。柴谷平野線は、昭和47年に全線開通する。その後、南海平野線の軌道敷を利用して、同55年に、阪神高速道路松原線と地下鉄谷町線の天王寺~八尾南間が開通、近鉄線の手前付近に駒川中野駅が開業し、これに伴い南海平野線は廃止となった。

弁天町

昭和42年(1967) · 港区 · 弁天町駅 240 m

戦災と台風高潮によって一望廃墟となった、港地区の復興区画整理事業において、散在していた市有地が、弁天町駅前に集約して換地された。その後、マスタープランで副都心と位置づけられながら、国際見本市の第2会場や、各種イベント会場、駐車場などに利用されていた。このようななかで、東西都市軸の西の拠点として、公有地の有効利用のため民間活力を導入する、弁天町駅前開発土地信託事業が実施された。この事業により、平成2~4年に、50階建超高層のホテル・オフィス・マンション・アミューズメントなどの「オーク200」が完成し、弁天町駅前地区は大きな変貌を遂げた。

平田の渡し

昭和44年(1969) · 東淀川区 · だいどう豊里駅 827 m

淀川の平田の渡しは、昭和23年に大阪市の直営となり、昭和35年には21人乗りの発動機船、同38年には36人乗りの新造船を就航させ、最盛期には1日3,000人の乗客を運ぶ市民の足であった。その後、万博関連事業として昭和45年3月に、豊里大橋が開通したのに伴って、300年の歴史をもつ、淀川最後の平田の渡しは姿を消した。豊里大橋は、幅員19.5m・橋長561mの本格的な斜張橋で、上下2段のケーブル配置が採用されており、同58年からはライトアップも行われている。

大正橋の架替え

昭和44年(1969) · 浪速区 · 大正駅 276 m

大正橋は、大正4年に架設され、当時日本一長いアーチ橋であったが、老朽化が進み、昭和31年から補強工事を行い、老朽橋の維持管理に努めた。その後、泉尾今里線の整備に伴って、架け替え工事が行われた。昭和44年の左側の新橋完成後、同46年に旧鉄橋を撤去して、幅員41mへの拡幅が同49年に完成したが、取付け道路のかさ上げの関係から、全面開通は同52年になった。以前の写真の背景右側に見えているガスタンクのあたりに、平成23年現在は京セラドーム大阪(大阪ドーム)が見える。

京阪ビルとOMMビル

昭和44年(1969) · 中央区 · 天満橋駅 144 m

京阪ビルディング(写真の手前)は、Ⅰ期が昭和38年、Ⅱ期が同41年に完成した鉄筋コンクリート造8階建のビルで、京阪天満橋駅、松坂屋・商業施設と旅行会館(のちのキャッスルホテル)。そののち松坂屋は平成16年に撤退し、同17年、外装改修し京阪シティモールがオープンした。一方の、大阪マーチャンダイズマート(OMM)ビル(写真の奥側)は、日本最初の卸センタービルとして、旧京阪天満橋駅跡地に昭和44年に完成オープンした22階建ビルである。そののち、平成元年に外装の全面カーテンウォール化改修を行い外観が一変している。

1970年代

難波宮の遺跡発掘

昭和45年(1970) · 中央区 · 谷町四丁目駅 563 m

難波宮については、近年までその所在地が確認されていなかったが、昭和28年に、法円坂の住宅建築現場から鴟尾の破片が出土、幻の難波宮の所在がようやく明らかになる。その後、山根徳太郎大阪市大教授らによる発掘調査で、昭和36年に大極殿跡が発見されて、「難波宮跡」であることが確認された。写真は、昭和45年の第37次後期難波宮大極殿の発掘調査の様子。その後、難波宮跡は、昭和39・51・61年に国の史跡に指定され、昭和51年、後期難波宮大極殿の基壇を復元するなどして史跡公園として一般公開されている。今も発掘調査は続けられ、古代都市大坂の姿が浮かび上げってきている。

水道局巽配水場

昭和45年(1970) · 生野区 · 南巽駅 555 m

大阪市の水道拡張事業として、昭和32年に巽配水場が完成し、庭窪浄水場から、発展の著しい市内東南部や南部方面への配水を担ってきた。その後、市有地の有効活用として、巽配水場の配水池上部を利用して、平成8年に巽東緑地(4.8ha)が開設された。ゆったりしたスペースに、ウォーキングロード・噴水・広場・グラウンドなどが整備され、市民に親しまれる空間となっている。

清掃局東住吉工場

昭和46年(1971)頃 · 平野区

清掃局東住吉工場は、昭和46年に大阪市で6番目に建設された、機械式焼却炉を備えた工場である。焼却能力は600トン/日で、粗大ごみ破砕機を備え、悪臭・ばい煙・汚水・騒音など公害の少ない最新の設備を整えている。平成15年、建替えられて旧工場の西側に、特徴ある曲面屋根の柔らかさのあるデザインの、最新設備を備えた新工場が完成し、焼却能力は900トン/日となった。

大阪大学医学部付属病院

昭和48年(1973) · 福島区 · 肥後橋駅 723 m

大阪大学医学部附属病院は、老朽化した旧病院の建替えにより、昭和48年に9階建の新病院が完成した。その後、大阪大学の吹田キャンパス移転にともない、平成5年に附属病院も吹田に新築移転し、約70年にわたる堂島の立地にピリオドを打たれた。跡地のうち東側は、平成13年に検察庁などの24階建大阪中之島合同庁舎が、西側には、平成20年に朝日放送・多目的ホールや商業施設(堂島クロスウォーク、リバーフォーラム)、49階建超高層マンションなどの複合する「ほたるまち」が、水都大阪の新拠点として誕生している。

港大橋の建設工事

昭和49年(1974) · 港区 · 大阪港駅 1043 m

港区天保山と住之江区南港を結び、大阪湾岸線の一部を形成する、世界最大級の3径間ゲル―トラス橋(全長980m)で、大型コンテナ船が航行できるよう水面からの桁下高51.5mの長大橋である。写真は昭和49年2月に行われた長さ186m・高さ22.5mの中央部桁の取付工事。同年7月に開通し、上下2層のダブルデッキになっており、上段が阪神高速道路の大阪港線、下段が湾岸線である。赤く塗装された巨大橋は圧倒的な存在感で、大阪港のシンボルとなっている。のち、平成7年の阪神大震災では一部損傷もあり、同14~19年度に耐震補強工事を行っている。

此花西部地区

昭和50年代 · 此花区

此花区西部には西六社と呼ばれた巨大工場群があった。桜島地区には、明治33年に、大阪鉄工所の桜島造船場(のちの日立造船)が開業し、昭和になってからは、住友金属工業の工場も拡張された。しかしその後、産業構造の変化への対応の遅れから、大きな転換を迫られてきた。そんななか、このエリアを活用し、世界の人々を大阪に注目させる大プロジェクトとして、ユニバーサル・スタジオを核とするまちづくりが動き出す。平成7年、基盤整備のための此花西部臨海地区土地区画整理事業がスタートし、同13年には、「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」が開業して、初年度1102万人をピークに年間約800万人で推移し、その後、イベント開催や人気アトラクションの導入によって増加し、多くの観客を集めている。

阿倍野再開発地区

昭和50年代 · 阿倍野区 · 阿倍野駅 191 m

阿部野橋交差点の南西側の一帯は、大阪の南の玄関口である阿倍野ターミナルに近接しながら、老朽化した商業施設・住宅が混在・密集して、再開発が急務の状況であった。昭和51年に、阿倍野地区市街地再開発事業の都市計画決定以来、順次区域を拡大して、平成6年までに約28ha全域の計画決定を行った。これまで、あべのマルシェ・ベルタ・ルシアス・メディックス・グラントゥール・niniなど、多くの施設建築物が完成してきた。平成23年には、あべの再開発地区の中核となる、モール型ショッピングセンター「あべのキューズタウン」がオープンし、高い集客力で賑わいをみせている。

東区役所

昭和54年(1979)頃 · 中央区 · 堺筋本町駅 296 m

東区役所は、長く続いた木造庁舎から、昭和10年に建替えられて、鉄筋コンクリート造3階建の庁舎となり、長く本町通の一つの顔となっていた。その後、東区と南区の合区に伴い、平成元年に中央区総合庁舎(久太郎町一)が完成して移転した。跡地には平成13年に18階建の大阪産業創造館が開設し、大阪の中小・ベンチャー企業支援拠点としての事業を展開している。

大阪府警本部

昭和54年(1979)頃 · 中央区 · 谷町四丁目駅 354 m

大阪府警察本部は、昭和34年に鉄筋コンクリート造5階建の庁舎が完成し、それまで府庁舎等に分散していた各部署が移転した。その後、老朽化に伴い、平成10年から建替えに着工し、平成14年に新庁舎第1期が完成、平成19年に、大阪府警察本部新庁舎全体が完成した。新庁舎は、建築家の黒川紀章設計の9階建(一部10階)で、屋上にヘリポートも設置されている。

1990年代

愛日小学校

平成10年(1998) · 中央区 · 淀屋橋駅 74 m

愛日小学校は、それまでの明治29年建築の御殿づくりの木造校舎から建替えられて、昭和4年に、鉄筋コンクリート造3階建プール付きの新校舎が完成した。のち平成2年に、集英小学校と統合して開平小学校が開校したのに伴い愛日小学校は閉校となり、大阪市関連の施設に利用される。その後、平成20年に、御堂筋沿いの民地等とあわせた市街地再開発事業により、三井住友海上淀屋橋ビル・淀屋橋三井ビルディングの2棟一体の、鉄骨鉄筋コンクリート造16階建商業施設・オフィスビル「淀屋橋odona」が建設された。

年の記載がないもの

大阪城本丸東側の諸櫓

幕末 · 中央区 · 大阪ビジネスパーク駅 698 m

慶応4年(1868)1月に炎上する前の大阪城本丸の外観を伝える幕末の湿式写真で、三層の隅櫓(手前から馬印櫓・月見櫓・糒櫓)とそれらを連結する多聞塀が石垣の上に建ち並んでいたが、明治維新の前夜、激動する時代を象徴するかのように、城内の建物群の多くとともに燃え尽きる。その後、大阪城内と周辺は軍用施設に占められることになり、昭和20年の空襲の標的になる。戦後は、昭和6年に再建された天守閣とともに、大阪城全体が公園として整備され、今の景色が市民に親しまれている。

八軒家船着き場

明治初年 · 中央区 · 天満橋駅 224 m

天満橋と天神橋の中間にあった大川南岸の古くからの船着き場で、8軒の船宿があったため八軒家と呼ばれた。江戸時代には、大坂と京・伏見を結ぶ三十石船など多数の船が発着したが、鉄道の発達とともに衰微した。のち平成20年に、京阪中之島線の整備に伴って、京阪天満橋駅と直結する八軒家浜船着場として、水上バス・観光船の桟橋や商業施設が整備され、つづいて大川沿いを天神橋まで続く水辺の遊歩道も整備されて、水都大阪の再生を着実に進めている。

川口波止場

明治初年 · 西区 · 阿波座駅 669 m

明治初年の大阪開港とともに、安治川左岸に河港の川口波止場と川口運上所・外務局・伝信局などが設けられ、上流側に外国貿易商館などが集まる川口居留地が建設された。大阪の文明開化はここから始まった。しかし、川口波止場は水深が浅く大型船の出入りが困難であったために、居留地の外国商人たちはしだいに神戸に移り、そのあとにキリスト教各派の宣教師が定住し教会・学校・病院などを創設したが、それら施設は天王寺区や阿倍野区等に移転した。居留地は明治32年に廃止された。のち、運上所は税関と改称し、現在は大阪税関富島出張所となり、そのほか港湾上屋などが建っている。

堺筋と三越百貨店

大正末期頃 · 中央区 · 北浜駅 146 m

商家の古い蔵が散在する瓦屋根の中に、大正9年に完成した8階建ての三越百貨店が威容を誇っている。明治45年に市電道路として拡幅された堺筋は、御堂筋ができる以前の大阪を代表する幹線道路であった。その後、堺筋沿道には高層ビルが建ち並び、昭和44年には地下鉄も開通する。平成7年の大震災によって、三越は大きな被害を受け、売り場を縮小して営業していたが、平成17年に閉店した。跡地には、平成21年に54階建の超高層マンション・The Kitahamaが建設されている。

明治の天満橋

明治20~30年代頃 · 中央区 · 天満橋駅 244 m

天満橋は、明治18年の淀川大洪水で木橋が流失した後、同21年12月鉄橋に架け替えられた。幅員11m・橋長215mで、主要鉄材はドイツ製であったが、高欄・照明柱・橋名額は国産品が使われた。明治44年にすぐ上流側に市電の専用橋が架けられるが、昭和10年、両橋は第1次都市計画事業によって幅員22mの重厚な鋼桁橋に架換えられる。その後、在来の天満橋の上に2階建の形で新天満橋が増設された。天満橋の北から高架になり、天満橋をまたぎ谷町筋に至る、全橋長410mのこの高架橋は天満重ね橋とも呼ばれている。

架け替え前の千代崎橋

明治中期頃 · 西区 · ドーム前千代崎駅 318 m

千代崎橋は、木津川に架かる橋で、木橋が明治18年の大洪水で流失したあとに架けられた、鉄柱の橋脚をもつ木桁橋。流失前の木橋は帆船を通すため中央部が引込み式の桁になった珍しい構造の橋であった。昭和2年、第1次都市計画事業によって、幅12.8m・橋長80.6mの鋼鈑桁橋に架け替えられる。その後千代崎橋は、昭和31年高潮対策により嵩上げされた。

鉄橋になった天神橋

大正後期 · 北区 · 北浜駅 479 m

明治18年の大洪水で流失し、明治21年12月に完成した鉄橋。アーチ型の上部構造は、橋脚間が66メートルもあり、当時の人々を驚かせたという。中之島の剣先が大正年間に天神橋まで伸びたため、天神橋は堂島川・土佐堀川の2川に架かる。対岸は天満青物市場。昭和9年、第1次都市計画事業によって、幅員22m・橋長211mの鋼2ヒンジアーチ橋が完成した。昭和62年には、自転車用のらせん形式の剣先スロープを設けるとともに、天神橋の美装化が行われた。

石造りの心斎橋

昭和初期頃 · 中央区 · 心斎橋駅 87 m

長堀川をまたぐ心斎橋の美しい石造りのアーチ、鉄柱に支えられたガス灯は、西欧風のデザインで、架け替えは明治42年11月。明治・大正・昭和の各時代、大阪を代表する繁華街のシンボルとなった(遠景に大正11年に完成した旧長堀高島屋ビルが見える)。のち昭和39年に、長堀川が埋め立てられたのに伴って、心斎橋は歩道橋となるが、心斎橋を惜しむ声を受けて、旧橋の石造の高欄がそのまま歩道橋の高欄として利用された。さらに平成9年、クリスタ長堀の整備に際し、地下街の出入口に一部が移設されている。

寝屋川焼却場

昭和30年(1935) · 城東区 · 鴫野駅 869 m

焼却設備の第2次拡張事業として着手、放出町寝屋川南岸に、昭和4年に建設したごみ焼却場。強圧送風炉16基を備えるもので、この焼却場の完成により、大阪市の1日焼却能力は75万キロとなった。のち、旧式となった寝屋川工場の代替として、昭和40年に、茨田焼野町に城東工場が完成し、寝屋川工場は廃止される。昭和50年、その跡地に放出小学校が開校し、平成15年には、新館校舎施設が完成している。

赤レンガの大阪株式取引所

大正末期 · 中央区 · 北浜駅 101 m

明治11年に開業し、明治27年に北浜最初の洋館に建替え、以降増築を重ねた大阪株式取引所。北浜交差点の南東角に位置し、煉瓦造の建物が商都大阪の活力を誇った。写真は、大正末期の市街地の風物をよく映して興味深い。明治期の建物老朽化のため、昭和10年4月、円形ドームをもつ鉄筋コンクリート造花崗岩貼り6階建の新市場棟に建替えられた。昭和18年日本証券取引所大阪支所、同24年大阪証券取引所となる。のち、老朽化と立会場機能不要化から、平成16年に24階建のビルに建替えられたが、北浜のランドマークであった旧証券ビルの外観は保存されている。

新世界通天閣と恵美須通

大正9年~昭和初期 · 浪速区 · 恵美須町駅 184 m

明治45年7月にオープンした新世界・ルナパーク。そのシンボルである通天閣にネオンサインが輝き、恵美須通の鈴蘭灯に灯がともり、人々をひきつける盛り場に夜が訪れる。大正9年にライオン歯磨きのネオンが設置された。ルナパークは大正12年閉鎖され、跡地は興行街になる。当時日本一の高さを誇った通天閣は、昭和18年火災によって脚部が焼損し、鉄材の戦時供出のため、翌年解体されて姿を消す。そののち、新世界の商店主たちの熱意によって、昭和31年10月、東京タワーと同じ内藤多仲設計による、高さ103mの2代目通天閣が、初代の少し北側の位置に再建された。以来、新世界のランドマークとして親しまれつづけ、のち、平成13年にリニューアルされている。

埋立前の大野川

昭和40年代前半 · 西淀川区

西淀川区の大野川は、淀川北岸一帯がまだ農地であったころの川で、都市化の進行でどぶ川と化し、排水機能を失い、環境の悪化を招いていた。そのため、浸水対策と環境整備の両面から埋立計画がたてられ、幹線下水道を埋設した後、昭和45年から埋立・整備工事が開始された。大野川歩行者・自転車専用道は昭和54年に全線が開通し、緑陰歩道と自転車専用道が整備され、地域社会に直結した生活道路、あるいは緑の散歩道や、ランニングコースとして利用されている。

長柄橋

大正期 · 東淀川区 · 西中島南方駅 1145 m

長柄橋は古来より有名であるが、詳細は明らかでなく、新淀川開さく後の明治42年、延長674mの鉄製のポニートラス橋が架けられた。さらに昭和11年には、十大放射道路事業の一つとしてすぐ下流側に幅員20m・橋長656mの橋に架け替えられ、同時に長柄可動堰が設置された。その後、昭和30年代に自動車交通が急激に増加し、長柄橋は市内随一の渋滞個所となり、混雑を解消するために、同39年にb字形曲線橋の長柄バイパスが完成した。さらに長柄橋も、淀川改修計画に沿って、昭和58年に中央部アーチ形式・橋長656mの新橋が開通した。(長柄橋と向こう側に見えているのが長柄バイパス)

塩水港製糖大阪工場

昭和初期 · 此花区

塩水港製糖(昭和25年に塩水港精糖と改称)は、戦前は4大製糖の一つと称される大企業であった。塩水港製糖大阪工場は大正9年に開業され、煉瓦造4階建の工場建屋が並んでいたが、のち昭和48年に泉佐野市に移転した。跡地は大阪市が買収し、広場・グラウンドなどとして利用されていたが、平成20年に、中高一貫の市立咲くやこの花中学校・高校が開校している。

川と住宅と煙突

大正元年(1926) · 福島区 · 玉川駅 869 m

かつて大阪は、「煙の都」「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、工場の煙突が立ち並び黒煙をふきあげている市街地風景が、都心近くにもあった。この写真は、堂島川の玉江橋から福島・西九条・中之島・本田方面を写したものである(煤煙防止研究会大正元年会報掲載)。それから戦後の高度成長期まで、煤煙やスモッグによる公害問題は続く。いまの市街地風景は当時と全く様変わりし、中之島には大阪国際会議場・リーガロイヤルホテルなどの大規模な施設が並び、福島側には超高層マンションなどもそびえる。

大阪府立図書館

大正初期 · 北区 · 淀屋橋駅 355 m

明治37年、住友家からの寄付をもとに、中之島公園の一角に、ルネサンス様式の大阪図書館が完成開館した。明治39年には大阪府立図書館と改称されるが、写真は、豊国神社からの図書館本館の全景である。その後、再び住友家からの寄付で、大正11年に左右両翼に閲覧室が増築された。昭和になって、書庫や別館などが増築され、さらに昭和49年には府立夕陽丘図書館の設立にあわせて、府立中之島図書館に改称されるとともに、重要文化財に指定されている。

淀屋橋南詰の御堂筋(拡幅前)

昭和初期 · 中央区 · 淀屋橋駅 141 m

市役所庁舎から見た淀屋橋南詰の御堂筋拡幅前は、商家の間に狭い淀屋橋筋が見えるが、市電の向こうでは家の立ち退きが始まっている(淀屋橋~本町の区間は昭和9年に拡幅が完成)。大阪の都心を南北に貫く御堂筋は、昭和12年5月に開通した近代大阪最大の記念碑である。幅44m・4列のいちょう並木、その地下を走る高速鉄道―。大阪のメインストリートとなった御堂筋は、交通の動脈としての機能性、大阪経済の発展、都市景観など都市の基盤をなすのみならず、その建設の過程にも市民の絶大なる協力があった。昭和45年からは南行き一方通行となっている。

拡幅前の淀屋橋筋

大正後期 · 中央区 · 淀屋橋駅 64 m

かつて淀屋橋南詰から南下する道は、淀屋橋筋という幅6mほどの狭い道であった。写真は淀屋橋筋の北端近くで、日本銀行大阪支店や市役所が見える。もともと御堂筋というのは、北御堂(西本願寺津村別院)と、南御堂(東本願寺難波別院)の門前を通る道につけられた名である。この道路が東側に拡幅されて、昭和10年には長堀川以北が完成し、昭和12年5月に幅員44mの御堂筋全線が開通した。以降、御堂筋は、大阪のメインストリートとして、沿道に高さ31mのビルが整然と建ち並ぶ都市景観が親しまれてきたが、平成7年からは、高さを50mとする新たな基準のもとでのビルが建てられている。

中央体育館

昭和30年代前半 · 中央区 · 谷町四丁目駅 300 m

大阪市中央体育館は、市制40周年を迎えた昭和34年、日本生命からの寄付をもとに建設され、東洋一の規模と設備を誇った施設であった。その後、老朽化にともない、平成8年に八幡屋公園へ新築移転した。跡地には平成13年に大阪歴史博物館(13階建)・NHK大阪放送会館(18階建)が一体建築として建設された。この敷地一帯は難波宮跡の一部であることから、地下部分に前期難波宮の倉庫の遺構が保存され、見学できるようになっている。なお、大阪城内にあった市立博物館は平成13年3月に閉館されて、11月に大阪歴史博物館が開館された。

今里ロータリー

昭和前期 · 東成区 · 今里駅 69 m

今里交差点は、千日前通・玉造通・今里筋が交わる五叉路の交差点となり、当時は信号処理が難しく、昭和9年、交差点の中心に円形の島を設置して車を周回させる「ロータリー」が設置された。その後、昭和29年に交通調査の結果、交通量の増加によって、歩行者の横断が困難で交通の難所になっているとして、ロータリーを撤去して信号機が設置された。こうして、これ以降普通の五叉路の交差点になっているが、いまでも地元では今里ロータリーと呼ばれている。

木津川飛行場跡

昭和初期 · 大正区

大正12年に、木津川口に水陸両用の木津川飛行場として開場され、船町に拡張整備のうえ、昭和4年に公共用に指定されて「大阪飛行場」となった。しかし、都心から交通の便が悪いうえ、周辺工場の煙霧にも悩まされていた。大阪市が進めた南港飛行場計画も、最終的に国の同意が得られないまま、昭和14年1月、大阪第2飛行場が伊丹に開設され、大阪(木津川)飛行場は閉鎖されることになる。跡地はその後、中山製鋼所の工場用地となっており、格納庫の一部とともに、木津川大橋のたもとに碑が建てられている。

桃山中学校

大正元年(1926)頃 · 阿倍野区 · 昭和町駅 479 m

大正元年、当時の田辺村北田辺に桃山中学校が、純英国式の校舎を新築し移転してきた。昭和20年戦災で全焼したため、変遷ののち、同24年に桃山学院高校として現在地に復帰した。同34年、桃山学院大学を開設するが、同46年に大学は堺市登美丘キャンパスに移転した(平成17年に和泉市へ再移転)。その後平成13年に高校の新校舎が完成し、同21年には学院創立125周年の記念体育館も完成した。さらに、中高一貫教育への要望の高まりを受けて、同20年、桃山学院中学校が再開設されている。

大阪府女子専門学校

昭和初期頃 · 住吉区 · 玉出駅 1164 m

大阪府女子専門学校は、大正14年に市域に編入された帝塚山東(旧住吉村帝塚山)に校舎を新築して移転開校された。昭和24年に府立大阪女子大学となって、その後、同51年には堺市大仙町に移転された。旧大学施設は、府立看護短期大学などを経て、校舎は平成10年府立貿易専門学校となるが、同16年に廃止となり、また旧大学図書館は、昭和60年から大阪府公文書館として利用されている。跡地南側には、平成11年に特別養護老人ホーム・ケアハウス等が建設されている。

出典:大阪市 観光施設一覧 (CC BY 4.0) のうち大阪の昔と今の行。名称は大阪市の記載のまま、本文は市の日本語からの訳です。年は市が載せる写真のうち古い方の撮影時期で、出典が示す日付はこれだけです。うち127か所は直線1200m以内にOsaka Metroの駅があります。