都市景観

大阪の都市景観資源

大阪市は「大阪らしさ」をつくる景観を登録しています。多くは通りがかりに見られ、駅から数分の場所も少なくありません。

中央区

もと大阪市立博物館

森ノ宮駅 737 m · 平成22年7月23日 登録

昭和6年(1931年)に陸軍第4師団司令部の建物として竣工。終戦後は駐留軍施設として接収された。昭和23年(1948年)、大阪市警察本部として返還を受け、その後、府警本部となる。昭和35年(1960年)には博物館として一部開館し、2年後に全面開館した。平成13年(2001年)、大阪歴史博物館の開館に先立ち閉館した。

伏見町付近の街並み(青山ビル・伏見ビル)

北浜駅 185 m · 平成22年7月23日 登録

伏見町には、青山ビルや伏見ビルといった戦前の建築物が当時と変わらない姿で今も存在している。青山ビルは大正10年(1921年)に洋館の邸宅として建てられ、ビル全体を覆う蔦が四季折々の姿を見せる。伏見ビルは大正12年(1923年)にホテルとして建てられ、円形の飾り窓などの外観が特徴的である。両ビルとも、国の登録有形文化財に指定されている。

八軒家浜船着場跡の近くにある石畳の階段

天満橋駅 211 m · 平成22年7月23日 登録

この付近は、古くは渡辺の津と呼ばれる船着場で、熊野街道の起点でもあった。平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」といわれ、人々はここで上陸して熊野に向かったといわれる。さらに江戸時代には、八軒家浜と呼ばれ、三十石船がつき、人の往来だけでなく、交易の場としてもにぎわった。

南海ビル(難波駅・髙島屋)

なんば駅 258 m · 平成22年7月23日 登録

御堂筋の建設を前後して、昭和7年(1932年)、ミナミの玄関口に4代目の南海難波駅が完成。現在もミナミのターミナルの役割を果たしている。ビルの外壁はすべてテラコッタ※が張り詰められ、連続する半円アーチと古典的な飾りのある円柱の壁面が特徴的である。当時から冷暖房完備されたターミナルビルには、現在もテナントとして髙島屋が営業している。  ※テラコッタ:素焼きの陶器焼き。

原田産業(大阪本社ビル)

長堀橋駅 300 m · 平成22年7月23日 登録

昭和3年(1928年)竣工。大きな四角い窓とアーチ型の入口の対比がはっきりしたデザインが特徴的。窓からは吹き抜けの階段が臨める。貿易商社原田産業の本社屋として設計建築され、現在も同社の本社ビルとして使い続けられている。

大丸心斎橋店

心斎橋駅 219 m · 平成22年7月23日 登録

大正14年(1925年)、第1期、第2期工事により心斎橋側が完成し、心斎橋筋に面する中央玄関上部に巨大なピーコックレリーフが掲げられた。昭和8年(1933年)には御堂筋の拡張整備に合わせて、御堂筋側が増築され高さ100尺(約30m)の外観が築かれた。

大阪倶楽部

淀屋橋駅 187 m · 平成16年10月8日 登録

大阪財界人によって経済都市大阪の進取的社交場として創設された社団法人大阪倶楽部の旧館が、大正11年(1922年)に焼失したあと、安井武雄の設計により大正13年(1924年)に再建された。国の登録有形文化財に登録されている。

大阪府庁本館

天満橋駅 382 m · 平成22年7月23日 登録

大正15年(1926年)竣工。現行の都道府県庁舎としては最も古い。外壁に石材と白い擬石タイルを広く用い、勾配のない水平の屋根とした外観意匠に特色があり、正面玄関の車寄せには個性的な装飾が施されている。大理石仕上げの床や階段をもつ3層吹き抜けの玄関ホールは、映画やドラマのロケにも利用されている。

御堂筋

なんば駅 68 m · 平成22年7月23日 登録

大阪の都心部を南北に貫くメインストリートであり、美しい景観を有する大阪のシンボルロードでもある。昭和12年(1937年)完成。沿道建物の高さは約31mまでに制限され、整然とした景観がつくられた。平成7年(1995年)には、御堂筋沿いの壁面の4m後退などを条件に、軒高50m、最大高さ60mまで緩和された。銀杏並木は大阪みどりの百選や大阪市指定文化財に指定されている。

愛珠幼稚園

淀屋橋駅 168 m · 平成22年7月23日 登録

明治34年(1901年)竣工。園舎としてはめずらしい御殿風の建築様式。築後100年以上経ってもなお現役の木造園舎は日本最古である。遊戯室は吹き抜けになっている。天井は寺院などにみられる格天井。建設当時からのシャンデリアが今も飾られている。園舎は国の重要文化財に指定されている。

新井ビル

北浜駅 26 m · 平成22年7月23日 登録

大正11年(1922年)、大日本報徳銀行大阪支店として建てられ、新井証券を経て新井ビルとなる。外観は完全な左右対称で、茶褐色のタイルの外壁が街に馴染んでいる。国の登録有形文化財に指定されている。

旧小西家住宅

北浜駅 213 m · 平成15年4月11日 登録

旧小西儀助商店(現コニシ株式会社)の旧店舗・住宅で、明治36年(1903年)に一部3階建で完成、堺筋の拡幅で西側が切り取られ、のち3階部分を撤去して現在の姿になった。船場に残る数少ない町屋の遺構のひとつとして、薬種問屋の形態を残した土蔵造り風の外観が特徴で、重要文化財に指定されている。内部は非公開。

法善寺水かけ不動尊

なんば駅 224 m · 平成22年7月23日 登録

法善寺の西向不動尊。苔に包まれてきれいな緑色になったお不動さんは「水かけ不動」として親しまれている。お供え物を持ち合わせていなかった参拝客が、思わず水をかけて手を合わせたのが始まりだと伝えられている。

浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院(北御堂)

本町駅 187 m · 平成22年7月23日 登録

大阪の発祥は本願寺の寺内町形成に由来するが、本願寺は信長との石山合戦で大坂を退去。残った門徒たちが天満に集会所を設け、慶長2年(1597年)の町割改革により現在の地に移転。後に津村別院となる。明治元年(1868年)に大阪鎮台が置かれ、また行在所となり明治天皇の行幸が行われた。大阪大空襲により焼失した本堂は、昭和39年(1964年)近代的なコンクリート造で再建された。

生駒時計店(生駒ビルヂング)

北浜駅 343 m · 平成16年10月8日 登録

明治3年(1870年)に高麗橋5丁目で創業した生駒時計店が、御堂筋の拡幅と地下鉄工事を機に現在地に当ビルを新築。昭和5年(1930年)に竣工した。設計は宗兵藏。国の登録有形文化財に登録されている。

道修町の界隈・古い家屋

北浜駅 336 m · 平成22年7月23日 登録

道修町は薬業関連会社が多く、江戸時代からこのあたり一帯は、町の人たちが子弟や丁稚のためにお金を出し合って塾や学校をつくり、商売と勉学を両立させていた。戦災を逃れたこの界隈には老舗の看板を掲げる建物が今も現役で残っている。

道頓堀グリコネオン

なんば駅 212 m · 平成15年4月11日 登録

昭和10年(1935年)に戎橋のそばに初めてグリコのネオン塔が立って以来、デザインが改良され、現在のもので5代目となる。高さ20m、横幅約11mと大規模で、ランナーが大阪城や海遊館、大阪ドーム、通天閣を背景に大阪の街を走るデザインとなっている。日没30分前に点灯し、24時に消灯し、道頓堀川の水面に映し出されるネオンも名物のひとつとなっている。

住之江区

住吉高燈籠

北加賀屋駅 1132 m

住吉高燈籠は美しい景観を誇ったすみのえの浜を実証するもので、建設は江戸時代中頃と考えられる。付近の浜辺の埋立てに伴い海から遠ざかり、大正末期には灯台の役目を終えた。昭和49年(1974年)、現在の地に、昔の形状で鉄筋コンクリート造により再建された。

南港オズ岸壁と大阪南港コスモフェリーターミナル

トレードセンター前駅 308 m

アジア太平洋トレードセンターの一部であるオズの岸壁は大阪市の帆船「あこがれ」の乗船場所となっている。その西北側の大阪南港フェリーターミナルは愛媛や北九州を結ぶ大型フェリーが就航しており、多くの船を眺めることができる。

名村造船所大阪工場跡地

北加賀屋駅 702 m

昭和6年(1931年)に稼働した名村造船所大阪工場の跡地が、当時の面影を残したまま、平成16年(2004年)、クリエイティブな活動をサポートする複合アートスペース「CCO(クリエイティブセンター大阪)」として整備されている。名村造船所大阪工場跡地は、「ものづくり大国・日本」の礎(いしずえ)として、また基幹産業のルーツとして大きな意義を持つものとして、平成19年(2007年)に経済産業省によって「近代化産業遺産」に認定されている。

地蔵尊のある風景(安立連合町会のなかの紀州街道沿いのお地蔵様)

古い町並みが残る地蔵尊の風景は住之江区の大切な景観となっている。当地の「安立」という地名は、元和年間(1615年~1623年)に、名医として名を馳せた半井安立がここに居を構えたことにちなむ。多くの人がその治療を求めて集まり、いつしか町が形成されたといわれている。

住吉区

すみよし村ぎゃらりー

住吉の歴史が体感できる「すみよし村ぎゃらりー」は、住吉街道沿いの古い民家をリニューアルした建物。住吉にちなんだ住吉踊りの傘や昔の油屋の状況を展示している。明治初めの建築で大和棟町家。また、馬つなぎのある珍しい町家である。

上田家住宅

玉出駅 1162 m

明治43年(1910年)の建築、瓦葺き切妻屋根、出格子や駒寄せなどの伝統的な町屋の形態を持っている。HOPEゾーン事業のまちなみ修景補助制度により、改修された。昔の住吉らしいまちなみの面影が感じられる。

住吉子安地藏寺(すみよしのこやっさん)

地蔵寺は承応3年(1654年)に僧承圓(しょうえん)が建立したという天台宗の寺院である。本尊の地蔵菩薩は、伝教大師作と伝えられ、地元では子安さんと親しまれている。平安時代の木造地蔵菩薩立像の優品で、大阪市指定有形文化財に指定されている。門前に百度石、門内に五大力尊像がある。

吾彦山大聖観音寺(通称あびこ観音)

あびこ駅 249 m

正式には「吾彦山」、寺号を「大聖観音寺」と称し、日本最古の観音信仰道場・厄除けの寺として有名。昔、この地に住んでいた依羅吾彦(よさみのあびこ)という勢力のある一族が、百済の聖明王から身の丈約5cmの小さな観音像を贈られた。人々は御堂を建てて信心したが、今から約1400年前、聖徳太子がこの地を訪ねられた際、観世音菩薩のお告げを受け、当寺を創建されたと伝えられている。

大歳社

住吉大社の境外末社で、祭神は大歳神 (おおとしのかみ) 。収穫の神であるところから、集金・商売繁盛・家内安全・願望成就に神徳があり、毎月最初の辰の日に参る「初辰まいり」では、種貸社、楠~社、浅沢神社と参り、ここで集金・収穫に感謝してしめくくる。拝殿右横の石柱の上にある丸い石を「おもかる石」と呼んでいる。

大阪市立大学(杉本キャンパス)

あびこ駅 1159 m

大阪市の南部、大和川を臨む地にある杉本キャンパスは緑豊かな清々しい環境が魅力の1つとなっている。杉本キャンパスのシンボル的存在である1号館(昭和9年(1934年)竣工)は国の登録有形文化財に登録されている。敷地中央にある「学術情報総合センター」は世界的に貴重な書物も含め約250万冊の蔵書を有し、教育・研究のための快適な環境を整えている。また、図書市民利用制度を設けており市民も利用できる。他にも八角形の大会議場・展示室等を連なる田中記念館、再生ガラスと透明ガラスを組み合わせた外壁と樹木が融合する高原記念館などがある。

宗教法人住吉大社

· 平成15年4月11日 登録

草創は神功皇后の海外渡航時の安全祈願の故事に由来すると伝えられるが、現在の本殿4棟は、文化5年(1808年)造営されたもので、桧皮葺き・切妻造り妻入りの住吉造りと称され、市内唯一の国宝建造物である。境内には、慶長11年(1606年)に架設され住吉大社の象徴ともいえる朱塗りの太鼓橋(反橋)をはじめ、重要文化財の石舞台や南門・東西楽所などや、全国から献灯された石灯ろう600余基などもある。

帝塚山スタジオ(市川家住宅)

玉出駅 877 m

「帝塚山スタジオ・市川恵子フラメンコ舞踊研究所」として知られる。漆喰の壁と木がフラメンコに最適なことから、土蔵を本格的なフラメンコスタジオに再生使用している。母屋の2階部分が洋館で和洋折衷を採り入れた造りは帝塚山地域でも非常に珍しい。土蔵や和洋折衷を取り入れた建物の造りから歴史や文化を感じる。

木下家住宅

「住吉街道」沿いに建つ大壁造りの漆喰壁の町家建築で、二階部分に虫籠窓が見られる。虫籠窓は角材に荒縄を巻いて土で塗り込んだもの。虫籠窓にはさまざまな説があり、防火目的と心理的な効果が狙いといわれている。また、二階造りの表を美しくみせるために生み出されたとも言われている。

熊野街道(HOPEゾーン内)

熊野街道は、和歌山県熊野本宮への参詣道で、平安時代から鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、多くの人々の往来で賑わった。京都から淀川を舟で下り、八軒家(中央区天満橋京町)に上陸した人々は上町台地を縦断、途中所在する「熊野九十九王子」(住吉区では津守王子)と呼ぶ遥拝所をたどりながら熊野三山に至った。

苅田の大楠

あびこ駅 717 m

苅田の鎮守様は、草津大歳神社といい、現在の苅田福祉会館のある場所に鎮座していた。大阪市の保存樹に指定されている「苅田の大楠」はご神木。

蔵のある住宅

大歳神社から国道479号線に向かうとすぐ左手に見られ、白壁と板壁の珍しい造りをしている。白壁と板壁の蔵、カイヅカイブキの古木、和風とモダンの住宅が美しく調和している。

蔵のある屋敷町

玉出駅 930 m

帝塚山地区には屋敷町があり、近年の建物が建ち並ぶ中で和の懐かしい文化を今に伝える家が残っている。帝塚山の住宅開発の100年とともにある蔵。よく手入れされた屋敷に屹立する白壁の蔵がとても美しい。

閻魔地蔵尊

玉出駅 858 m

地蔵が閻魔大王に化身したもので、難波の浜から背負って運んで来たが、この地で急に重くなり一歩も進めなくなったという。冥土の苦界六道の辻が、今では1本増えて七道の辻となっている。

阪堺電気軌道住吉交差点

玉出駅 1062 m

阪堺電気軌道の上町線と阪堺線、2つの路線が道路上で交差する。阪堺電車は現在大阪市内を走る唯一の路面電車で、通称「ちん電」と呼ばれている。上町線の前身は明治33年(1900年)開業の軌道に乗った客車を馬が引く馬車鉄道だった。明治43年(1910年)には電化工事が完成し天王寺西門前~住吉神社前間で運行を開始した。日本では高知市の「はりまや橋交差点」と、ここ住吉にしか残っていない路面電車同士の交差点である。

WILL帝塚山

玉出駅 953 m

第22回(2002年)大阪まちなみ賞(大阪都市景観建築賞) 奨励賞受賞。小さい限られた敷地の中で、外には近隣に開かれたギャラリーを角地に持ち、住人には中庭の古い立木を囲んだ共有空間を提供している。先代からの既存の土蔵や庭石を生かした試みは、ともすれば崩れゆく風致地区周辺の住宅地の中で、美しく心地良い凛とした存在になっている。

北区

お初天神(露天神社)

東梅田駅 207 m · 平成15年4月11日 登録

露天神社は、創建以来1300年ともいわれ、菅原道真の詠んだ歌から露天神社とも称する。一般には、近松門左衛門の名作「曾根崎心中」の遊女お初にちなんでお初天神と呼ばれている。昭和20年(1945年)、戦災により焼失したため、昭和32年(1957年)に社殿が再建され、平成5年(1993年)の改修により境内は一新されている。

ちゃやまちプロムナード

中津駅 452 m · 平成22年3月5日 登録

梅田駅の北東に位置する延長約200mの高木のケヤキ並木道である。この道は、地権者自らが将来の町の姿を共有し、細街路を両側4m以上壁面後退して生み出したものである。一部、夜間のライトアップが行われている。

みおつくしプロムナード

淀屋橋駅 269 m · 平成22年3月5日 登録

市役所の南側に位置する延長約210mのケヤキ並木の自転車歩行者専用道となっている。また、期間限定で、夜間のライトアップも行われている。

大阪府立中之島図書館

淀屋橋駅 342 m · 平成16年10月8日 登録

明治37年(1904年)に住友吉左衛門友純の寄付により、大阪で初めての学術図書館として開館した。設計は野口孫市と日高胖で、施工は久保田小三郎。竣工当初は中央の十字型の建物だけで、大正11年(1922年)に両翼の部分が住友家の寄付をもとに、日高胖の設計によって増築された。国の重要文化財に指定されている。なお、東側にも戦前から近年にかけて別館等が増築された。

天神橋筋商店街(2丁目)の看板

南森町駅 121 m · 平成22年3月5日 登録

天神橋筋商店街(2丁目)の入口にある看板。天神祭で御神霊を出迎えるお迎え人形をモチーフにしている。交差点北側、南側の2箇所に設置されている。

扇町キッズパーク(関西テレビ放送)

扇町駅 107 m · 平成22年3月5日 登録

平成9年(1997年)竣工。市の土地信託事業により複合文化施設として建設された。現在は、関西テレビ放送の社屋となり、キッズプラザ大阪などが入居している。地上13階建てで、扇町公園に隣接し、ミラーガラス張りのデザインとなっている。

菅原町の土蔵

北浜駅 435 m · 平成22年3月5日 登録

完成年度は不明。大正時代に乾物問屋の蔵として建築されたと推測される。周辺には、その当時の土蔵の一部が倉庫や事務所として使われている。

造幣局桜の通り抜け

京橋駅 875 m · 平成22年3月5日 登録

造幣局の創業は、明治4年(1871年)4月。明治16年(1883年)に桜のトンネルの「通り抜け」が開始され、造幣局構内大川沿いの全長560mの通路を1週間一般開放している。現在、120品種以上340本以上の桜を数え、大半は遅咲きの八重桜である

道引地蔵尊

中崎町駅 377 m · 平成22年3月5日 登録

明治24年(1891年)に建立。4畳半ほどのお堂に、お地蔵さんが佇んでおり、地域の人々の信仰を集めている。

城東区

中浜下水処理場の桜

鴫野駅 561 m

中浜下水処理場は、大阪市で3番目の下水処理場として昭和35年に通水した。場内に整備された「中浜せせらぎの里」周辺には、約300本の桜並木が毎年春に見事な桜のトンネルを作り、多くの人々の目を楽しませている。

城北川新光製糖の艀

今福鶴見駅 589 m

新光製糖は、精製糖、氷砂糖、液糖の製造販売等を業種とする会社である。昭和19年(1944年)に城東区鴫野町に設立、昭和27年(1952年)に今福工場を建設、昭和29年(1954年)に本社を今福に構えた。かつて“水の都”といわれた大阪に本社を置く新光製糖では、地の利を活かしてCO2排出量の少ない、艀(はしけ)輸送を50年以上続けている。

大阪信愛女学院

新森古市駅 435 m

学院の歴史は明治17年(1884年)に川口居留地に開校したことに始まる。現在地の城東区古市(当時は東成区千林町)に移転した時に建設されたのが本館で、今でも幼稚園から短大まで続く同学院の中で、中学校校舎の一部として使用されている。(開設:昭和7年(1932年))また、聖堂は、第25回(2005年)大阪まちなみ賞(大阪都市景観建築賞) 大阪市長賞を受賞しており、街路の角地を生かして聖堂の祭壇を配置し、外壁をセットバックさせて街路と一体になった緑地と水盤を設け、周辺環境への積極的な配慮を行っている。

諏訪2丁目の大いちょう

深江橋駅 799 m

大阪市指定<昭和43年(1968年)10月1日>の保存樹で、高さ16.5m、幹まわり3.3mに達する。宅地内にあるが、樹高が高いことから遠くから眺められ、落葉の季節には、道一面に黄色いじゅうたんが敷きつめられたように美しくなる。幹まわりから見ても、かなりの樹齢であると推察され、この地域のシンボル的存在である。

野崎街道の家並み

蒲生四丁目駅 362 m

野崎街道は、通称「野崎の観音さん」で知られる曹洞宗福聚山慈眼寺(大東市野崎)へ参詣するルートである。野崎参りは 17世紀後半の延宝(1673~1681)・元禄(1688~1704年)に始まり、明治の末頃まで、大坂の町や近郷から行楽を兼ねてお参りをする人々で賑わった。今でも旧街道沿いに、古い伝統的な家屋が点在しており、かつての街道筋だった面影が残っている。

野江水流地蔵尊

野江内代駅 126 m

大阪北部一帯を襲った、未曾有の大洪水時(明治18年)に、当地に流れ着いたとの謂れがあり、城東区民にとって忘れてはならない出来事の証人として、守り伝えなければならないお地蔵さんとされている。地元町会に守られ、地蔵盆などの行事は欠かさず毎年行われている。

関目2丁目・4丁目の楠並木

関目成育駅 623 m

関目2丁目、4丁目の道路にある楠並木。延長100m強の「クスノキ並木」で、高さ約10m、枝振りも立派で手入れもよく行き届いた「癒しの空間」となっている。真夏の昼下がりや軽やかなそよ風に触れる事の出来る、貴重な緑陰空間である。

大正区

千島公園(昭和山)

千島公園は、昭和51年(1976年)4月に開園された約11.2haの区を代表する総合公園である。千島公園内にある昭和山は、江戸時代に造られた天保山を模して昭和に造られた人工の山である。クスノキやケヤキなどが茂り、ツツジ、ヤマブキ、クチナシ、アセビが花を咲かせる大正区のシンボルとなっている。

千歳橋と千歳渡船場

千歳渡船は大正区鶴町4 丁目と同区北恩加島2 丁目を結んでいる(岸壁間371m)。鶴町側からは、多くの船が浮かぶ大正内港のかなたに、昭和山(標高33m)や千島団地等が眺められ、尻無川の広々とした河口風景ともあいまって、ウォーターフロントの美しい景観となっている。平成15年4月には、この渡しの上に橋長365m、海面からの高さ28m の千歳橋が完成し大正区の新たなランドマークとなっている。

大正内港のはしけ桟橋

大正中期から昭和初期、千島新田と泉尾新田一帯に、運河・貯木場・水路の開削と道路・橋梁・宅地盛土などの開発工事が実施され、材木業者が誘致された。昭和7、8年(1932、1933年)頃には業者数約600戸の木材街が出現し、その木材市場は業界の一大中心地となった。昭和50年(1975年)に現在の原型となる「大正内港はしけ桟橋」が整備され、わずかにその面影をとどめている。貯木場の移転後に整備され多くの船舶が係留されている桟橋の姿は、港らしい景観を作り出している。

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■甚兵衛渡船場:大正区泉尾7丁目と港区福崎1丁目を結ぶ(岸壁間94メートル

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■落合上渡船場:大正区千島1丁目と西成区北津守4丁目を結ぶ(岸壁間100メートル)。

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■落合下渡船場:大正区平尾1丁目と西成区津守2丁目を結ぶ(岸壁間138メートル)。

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■千本松渡船場:大正区南恩加島1丁目と西成区南津守5丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■千歳渡船場:大正区鶴町3丁目と同区北恩加島2丁目を結ぶ(岸壁間371メートル)。

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■船町渡船場:大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結ぶ(岸壁間75メートル)。

大正区の渡船場の景観

大正区は四方を川と海に囲まれた地域であり、橋梁が整備された現在も、渡船は、区民の生活に欠かせない貴重な足としての役割を担っている。市内に8ヶ所ある渡船場のうち7ヶ所は大正区にあり、その景観には、水の都に思いを馳せさせるとともに、深く歴史を感じさせる力がある。■木津川渡船場:大正区船町1丁目と住之江区平林北1丁目を結ぶ(岸壁間238メートル)。

木津川水門

木津川水門は、造船所などがならぶ木津川にあるアーチ型水門である。台風などで押し寄せてくる大阪湾からの高潮をせき止めることを目的に、昭和45年(1970年)11月に整備された。アーチ型ゲートの主水門とスイング式ゲートの副水門からなっており、主水門の径間は57m、副水門の径間は15mである。ともに緑色で彩られ象徴的な景観を呈している。

天王寺区

U氏邸

谷町六丁目駅 364 m

打ち放しの外観に、豊富な植栽が良く映える。昭和43年(1968年)に職住一体都市住宅のさきがけとして建築された。緑に被われたファサードは年月を重ねるごとに豊さを増している。日本の現代建築に大きな影響を与えた建築家・西澤文隆による設計。平成19年(2007年)には、NPO法人屋上開発研究会大阪支部が主催する「第1回屋上開発・関西さきがけ賞」の大賞を受賞した。

一心寺三千佛堂

天王寺駅 535 m

一心寺に参詣される善男善女のために開かれた講堂として、平成14年(2002年)5月に建立された。この内部、大回廊に、千躰の佛様―「千躰佛」を21世紀中かけて順次造立奉安されていく予定である。

伝藤原家隆墓

四天王寺前夕陽ケ丘駅 151 m

藤原家隆(1158年~1237年)は、藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で、79歳の時に官を辞して浄春寺の地に隠棲(いんせい)した。その翌年の春の彼岸に高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ直ぐに落髪して仏性と号し、その4月9日に消えるように一生を終えた。伝藤原家隆墓は、家隆の墓といわれ、その傍らには、御影石にこの歌が夕日とともに刻まれた歌碑がある。夕陽丘の地名は、この歌の「波の入日」からきている。

四天王寺西門前の参道

四天王寺前夕陽ケ丘駅 518 m

四天王寺西門前の石畳の道であり、参道上に立つ西門前の石鳥居は国の重要文化財に指定されている。石鳥居から西門までの沿道には店舗や露店等が並んでいる。四天王寺西門は、浄土信仰のうえで日想観の聖地として位置付けられる特別な土地であり、平安時代以降、様々な階層の人々から厚い信仰を集めてきた。石鳥居はその象徴的な存在で、現世から西方浄土への入口としての役割を負う建造物である。なお、参道については、四天王寺の参道にふさわしい、にぎわいと雰囲気づくりを目的に大阪市の修景事業により整備が行われている。

大正湯の煙突

鶴橋駅 792 m

夕陽丘高校の東側の道を北へ入った閑静な住宅街の中にある。狭い空間をうまく開放感と質感をもつ雰囲気に仕立てた設計(昭和56年(1981年))となっている。

大阪ガス 実験集合住宅 NEXT21

谷町六丁目駅 342 m

「ゆとりある生活と省エネルギー・環境保全の両立」をテーマに、近未来の都市型集合住宅のあり方を提案することを目的として、大阪ガス(株)が平成5年(1993年)10月に建設した実験集合住宅である。竣工以来、平成6年(1994年)4月、平成12年(2000年)4月、平成19年(2007年)4月から各5年間にわたり、それぞれ時代を見通したテーマを設定し、大阪ガス社員とその家族が実際に居住しながら、計3回15年間の実証実験が取り組まれてきた。平成25年(2013年)6月からは「第4フェーズ」として、「環境にやさしい心豊かな暮らし」をテーマに、人と人のつながりの創出、人と自然の関係性の再構築、省エネ・スマートな暮らしの実現を満たすべき要件と捉え、それらを具現化する、「住まい」および「エネルギーシステム」の2分野の実証実験が実施されている。樹木も多く配置され、周辺の住民の方々からも親しまれている建物である。

大阪市立大江幼稚園

四天王寺前夕陽ケ丘駅 266 m

昭和5年(1930年)7月17日開設。平成22年(2010年)に、80周年を迎え、園舎は、戦災や災害に耐え、木造平屋建て瓦ぶき屋根の、歴史と伝統の重みと懐かしさを残している。園庭には、桜や藤などの樹木やブドウやミカン、モモ等の実のなる木があり、花壇には四季折々の花が咲く。

天王寺七坂(口縄坂)

四天王寺前夕陽ケ丘駅 276 m

谷町九丁目から四天王寺西門の南北と谷町筋から松屋町筋までの東西の地域には寺や神社が多く、その名を付けた坂や坂の形から呼ばれるようになった坂などがあり、その七つの坂は天王寺七坂と言われている。口縄坂を上りきったところには織田作之助文学碑があり、松屋町筋と逢坂の交わる公園北口交差点の南東には道しるべの石標なども存在し、坂道とともに歴史的なまちなみを形成している。

天王寺七坂(天神坂)

四天王寺前夕陽ケ丘駅 466 m

谷町九丁目から四天王寺西門の南北と谷町筋から松屋町筋までの東西の地域には寺や神社が多く、その名を付けた坂や坂の形から呼ばれるようになった坂などがあり、その七つの坂は天王寺七坂と言われている。口縄坂を上りきったところには織田作之助文学碑があり、松屋町筋と逢坂の交わる公園北口交差点の南東には道しるべの石標なども存在し、坂道とともに歴史的なまちなみを形成している。

天王寺七坂(清水坂)

四天王寺前夕陽ケ丘駅 347 m

谷町九丁目から四天王寺西門の南北と谷町筋から松屋町筋までの東西の地域には寺や神社が多く、その名を付けた坂や坂の形から呼ばれるようになった坂などがあり、その七つの坂は天王寺七坂と言われている。口縄坂を上りきったところには織田作之助文学碑があり、松屋町筋と逢坂の交わる公園北口交差点の南東には道しるべの石標なども存在し、坂道とともに歴史的なまちなみを形成している。

学園坂

四天王寺前夕陽ケ丘駅 308 m

天王寺区下寺町・松屋町筋から谷町筋六万体へ通ずる坂は、上町台の中央を南北に分断するような大きな坂である。かつて小さな道を切り開いて自動車道路として造られたものである。その後、道沿いに大阪女子学園(現在大阪夕陽丘学園)ができて学園坂とよばれるようになった。

真田山公園前の道

玉造駅 415 m

真田山公園の北側の坂道は、真田山町と玉造本町との間の道を西へ入り、餌差町(えさしまち)の伝長寺前まで約330mつづいている。真田山公園の地には、もと騎兵第四連隊があり、昭和7年(1932年)に移転した跡地が公園となった。公園北の坂道も騎兵隊移転後に整備されたものである。上町台地に点在する文化遺産や貴重な史跡の景観を楽しみながら散策できるみちづくりの1つである「坂道」整備により、この石畳の道も昭和59年~60年(1984年~1985年)に整備された。

総本山四天王寺

四天王寺前夕陽ケ丘駅 451 m · 平成15年4月11日 登録

四天王寺は、推古天皇元年(593年)聖徳太子により創建された日本最古の官寺で、南北一列に並ぶ伽藍配置は四天王寺様式と呼ばれる。たびたびの戦火や災害にあたってきたが、西門の石鳥居や、元和9年(1623年)再建の六時堂・五智光院・本坊方丈などは重要文化財に指定されており、中心伽藍は昭和38年(1963年)に鉄筋コンクリート造で再建が完成した。

總本家釣鐘屋

四天王寺前夕陽ケ丘駅 563 m

明治33年(1900年)、地元の有志から四天王寺に大梵鐘が奉納され、大阪商人の心意気を示す快挙として評判になった。その奉納記念として、釣鐘のかたちを模した饅頭を、四天王寺の門前で売り出したのが「釣鐘まんじゅう」のはじまりである。店舗の屋根につけられた鐘などレトロな外観が、100年以上つづく店舗の歴史を感じさせる。

超願寺(竹本義太夫の墓)

天王寺駅 453 m

義太夫節浄瑠璃の元祖といわれ、慶安(けいあん)4年(1651年)この付近(堀越(ほりこし)神社南約100mの路上に、生誕地碑)に生まれた。若いころから研究熱心で小唄・俗謡から物売りの呼声まで身につけ、将来に備えた。その後京・大坂で修業を積み、延宝(えんぽう)5年(1677年)に独立、作者に近松門左衛門を迎え、その他、三味線・人形の名手、経済面での協力者を得て「曽根崎心中」で大当たりをとった。お墓は、超願寺境内にあり、お堂の状態で雨風から守られている。

鶴橋駅周辺の焼肉店の多い街並み

鶴橋駅 44 m

天王寺区には鶴橋西商店街があり、ここ数年で焼き肉店が増えたことから“焼肉スクウェア”と呼ばれている。この商店街の風景は、焼肉店やキムチなどの食材を扱う店などが建ち並び、焼き肉の香ばしいかおりやキムチなどの独特なかおりが広範囲にわたって漂っていることから、環境省のかおり100選に選ばれている。

齢延寺

谷町九丁目駅 404 m

元和6年(1620年)僧義春によって曹洞宗の寺として真田山に開創され、元和9年(1623年)に現在の場所へ移転しており、志摩国領主稲葉家の菩提寺でもあった。江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所で、今も大樹古墓の多い風格のある寺として知られる。境内には、幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳(とうがい)・南岳(なんがく)父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師(かじし)の左行秀(さのゆきひで)の墓がある。

平野区

八坂神社と椋の木

出戸駅 780 m

東喜連村の氏神で素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間に忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)(允恭(いんぎょう)天皇の皇后)を祀る媛天神(ひめてんじん)を合祀して東西神社となった。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので、東西の二字をとった。明治42年、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されていたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年、東喜連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時に地域の氏子も別れることとなった。境内には「椋の木」があり、根元の幹周りは約4m余りもある大木である。

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)

喜連瓜破駅 389 m

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野(なかこうや)街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻(せんこく)の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)

喜連瓜破駅 547 m

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野(なかこうや)街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻(せんこく)の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。6つの地蔵尊の位置と名称から中世の喜連城の惣構(そうがまえ)が浮かび上がる。また、地蔵尊は戦乱の時代に一揆も戦った村の関所跡でもある。戦が止んでからは集落の出入口で田畑に通う人々を見守り、喜連環濠集落を守護する存在として、人々の生活に溶け込んできた。次第にこどもたちを守る仏様に転じ、夏の風物詩「地蔵盆」(毎年8月23、24日)の舞台となって、今もこどもたちに親しまれている。地蔵尊は隣近所の人々の温かい善意の気持ちによって何百年と護り続けられている。

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)

喜連瓜破駅 564 m

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野(なかこうや)街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻(せんこく)の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。6つの地蔵尊の位置と名称から中世の喜連城の惣構(そうがまえ)が浮かび上がる。また、地蔵尊は戦乱の時代に一揆も戦った村の関所跡でもある。戦が止んでからは集落の出入口で田畑に通う人々を見守り、喜連環濠集落を守護する存在として、人々の生活に溶け込んできた。次第にこどもたちを守る仏様に転じ、夏の風物詩「地蔵盆」(毎年8月23、24日)の舞台となって、今もこどもたちに親しまれている。地蔵尊は隣近所の人々の温かい善意の気持ちによって何百年と護り続けられている。

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)

喜連瓜破駅 537 m

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野(なかこうや)街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻(せんこく)の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。6つの地蔵尊の位置と名称から中世の喜連城の惣構(そうがまえ)が浮かび上がる。また、地蔵尊は戦乱の時代に一揆も戦った村の関所跡でもある。戦が止んでからは集落の出入口で田畑に通う人々を見守り、喜連環濠集落を守護する存在として、人々の生活に溶け込んできた。次第にこどもたちを守る仏様に転じ、夏の風物詩「地蔵盆」(毎年8月23、24日)の舞台となって、今もこどもたちに親しまれている。地蔵尊は隣近所の人々の温かい善意の気持ちによって何百年と護り続けられている。

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)

喜連瓜破駅 406 m

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野(なかこうや)街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻(せんこく)の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。6つの地蔵尊の位置と名称から中世の喜連城の惣構(そうがまえ)が浮かび上がる。また、地蔵尊は戦乱の時代に一揆も戦った村の関所跡でもある。戦が止んでからは集落の出入口で田畑に通う人々を見守り、喜連環濠集落を守護する存在として、人々の生活に溶け込んできた。次第にこどもたちを守る仏様に転じ、夏の風物詩「地蔵盆」(毎年8月23、24日)の舞台となって、今もこどもたちに親しまれている。地蔵尊は隣近所の人々の温かい善意の気持ちによって何百年と護り続けられている。

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口、西口、馬倉、東口、南口)

喜連瓜破駅 309 m

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野(なかこうや)街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻(せんこく)の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。6つの地蔵尊の位置と名称から中世の喜連城の惣構(そうがまえ)が浮かび上がる。また、地蔵尊は戦乱の時代に一揆も戦った村の関所跡でもある。戦が止んでからは集落の出入口で田畑に通う人々を見守り、喜連環濠集落を守護する存在として、人々の生活に溶け込んできた。次第にこどもたちを守る仏様に転じ、夏の風物詩「地蔵盆」(毎年8月23、24日)の舞台となって、今もこどもたちに親しまれている。地蔵尊は隣近所の人々の温かい善意の気持ちによって何百年と護り続けられている。

奥田邸とその裏の道

代々鞍作の庄屋をつとめた奥田家の邸宅。現在の屋敷の建築年代は明らかではないが、手法から江戸時代初期の豪農の家と考えられる。市内に残る数少ない民家である。敷地をはじめ主屋・座敷・長屋門・納屋などが国の重要文化財に指定されている。

小林新聞舗店舗

平野駅 651 m

2つずつ配したアーチ形の窓枠が特徴のレトロな建物で、「新聞屋さん博物館」にもなっている。明治22年(1889年)創業の、市内でもっとも古い新聞販売店で、建物は昭和4年(1929年)に建てられた。平成19年(2007年)国の登録文化財となった。

旧南海電鉄平野線平野駅跡プロムナード

平野駅 348 m

チンチン電車の愛称で親しまれた南海電鉄平野線の軌道跡地に、昭和58年(1983年)に設置された遊歩道。南海電鉄平野線は、大正3年(1914年)開通以来、多くの人々の交通手段として活躍したが、地下鉄谷町線の開通に伴い、昭和55年(1980年)に廃止された。

旧屋敷小路(喜連環濠地区内)

喜連瓜破駅 429 m

喜連環濠地区の旧中高野街道沿いには、江戸期から明治期にかけて建てられた旧家の建物など、歴史的まち並みが残されている。古代の村が中世の環濠集落、近世の惣村へと発展していったことを裏付ける遺跡群が再発見され、その歴史が明らかになりつつある。

末吉家住宅

平野駅 683 m

末吉家は平野七名家の一家で、東横堀川に今も残る末吉橋を架橋した。平野郷町誌によると、屋敷の竣工は宝永4年(1707年)頃で、築300年を超した現在もその壮麗な屋敷構えを見ることができる。江戸中期に建設された住宅、門、塀、西蔵は、国の登録有形文化財に登録されている。

野中山 全興寺(やっちゅうざん せんこうじ)

平野駅 645 m

1300年前、聖徳太子が建立し、薬師如来像を安置したのが草創と伝えられる。焼失により寛文元年(1661年)に再建された本堂は、府下でもっとも古い木造建築の一つ。境内には「地獄堂」や「小さな駄菓子屋さん博物館」等があり、来訪者を楽しませている。

旭区

千林の長屋

千林大宮駅 448 m · 平成22年3月5日 登録

昭和12年(1937年)建築の2階建長屋。9軒(4軒と5軒)が軒を連ね、通りに玄関と台所が面し、台所部分の屋根は入母屋式となっている。

淀川城北ワンド

· 平成22年3月5日 登録

城北公園付近の堤防に位置し、天然記念物・イタセンパラの生息場所となるなど、多様な生態系を形成している。現地ではワンドの環境を守るためのクリーンキャンペーンが行われている。

東成区

八王子神社御旅所の楠

今里駅 456 m

八王子神社御旅所の楠は、樹齢1300年を数えるとされ、明治18年(1886年)の洪水の際には、楠の上に、いかだを組んで難を逃れたという言い伝えがある。幹周11m、樹高25mで、大阪市の保存樹に指定されている。八王子神社御旅所は、この樹の見事さから楠神社とも呼ばれている。

北中道の古い街並み

今里駅 638 m

かつて平野川と暗越奈良街道とが交差する玉津橋は、交通の要所として賑わっていた。玉津橋西詰を北に入ると、通りの両側に蔵や板塀のある民家が連続しており、古い街並みを形成している。

旧三井釦被服

今里駅 416 m

今里周辺には明治中期から大正にかけてボタンや被服の製造に携わる事業者が数多く存在した。そのなかで三井釦被服は最も大きな事業者であった。この建物は、昭和初期に軍の要請で四条畷市に青年学校校舎として建てられたが、青年学校校舎としては使用されず、小学校仮校舎として使用され、戦後になってから現在の地に移築したといわれる。移設当時から被服製品の販売を行っていたが、後に改装して用途の転用を図っている。移築当時は、左右対称の建物であったが、左側部分が取り壊され、非対称となっている。

東小橋の街並み

鶴橋駅 463 m

東小橋にある比賣許曽神社の歴史は古く、古事記では新羅から渡来した赤留比売命を祀ったと記され、石山合戦の兵火にあい、現在の地に移ったとされている。比賣許曽神社の周辺は、かつて江戸時代・明治時代の東小橋村の中心であった。現在でも、比賣許曽神社のほか、安楽寺、格子のある民家など、戦災から逃れた昔の街並みが残っている。

深江の建築物、史跡群

新深江駅 602 m

昔、良質の菅の生い繁った深江の地に、笠を縫うことを職業とした大和の一族が集団移住したことが始まりと伝えられている。菅笠・菅細工などの伝統文化が現在も継承され、伊勢神宮式年遷宮に使用する菅笠を納めている。深江集落には、笠縫邑跡として史跡に指定されている深江稲荷神社、法明寺などがあり、茅葺屋根形状の家屋、蔵、地蔵堂も多く見ることができる。

火袋式道標

今里駅 459 m

暗越奈良街道と千日前通が交差する場所に立つ道標。上部を四角にくりぬいて火袋とし、上に笠をのせた形状をしている。文化3年(1806年)に釘問屋が建てたといわれており、道標には「右志き山、八尾久宝寺道 左いせ、なら道」と示されている。

玉津の昭和初期の街並み

今里駅 666 m

玉津周辺は、映画「血と骨」の舞台となった場所である。映画に出てくる市電「大成通一丁目」停車場(昭和44年(1969年)廃止)の周辺には、サンデー毎日創刊時からの看板、昭和8年(1933年)創業の食堂など昭和初期の街並みが残っている。

矢田地蔵尊

玉造駅 438 m

玉造駅から東に入った暗越奈良街道沿いにある。峠越えをして奈良へいくときに、ここで願掛けをしたといわれている。奈良の矢田寺に縁のある地蔵で、地蔵堂の中央に安置された石の地蔵尊には、矢田寺への道しるべが彫られている。

東淀川区

せせらぎの遊歩道

瑞光四丁目駅 377 m

大桐3~5丁目にかけて、延長610mのせせらぎの遊歩道がある。木々が生い茂り、小川が流れている。この小川は、昔、農業用水路として使っていた。子どもたちの水遊びや虫取りをする楽しそうな声、お父さんと楽しそうに散歩する姿、買い物の途中にベンチで一休みをしている方など、この都会のオアシスとして親しまれている。北側360m区間は、岩や石を配して日本庭園風に、南側の250m区間は、タイルを敷きつめ、洋風式庭園にとそれぞれ趣向がこらされている。

一柳家の門・塀

一柳家の先祖は、中島大水道の開削にあたり、その実現に苦労を重ねた責任者の一人の一柳太郎兵衛であった。一柳家の亀岡街道沿いには、歴史を感じる板塀・門・土塀が連なってあり、その中でも、現在残る土塀には当時の瓦がぬりこめられており、続く四脚門は民家には珍しく共に風情をそえる。また土塀の脇には、天保7年(1836年)建立の亀岡街道と瑞光寺への道標があり、旧街道沿いの街並みを偲ばせる。

上新庄の古い趣のある家並み

上新庄2丁目の阪急上新庄駅に隣接する一帯には、信覚寺や春日神社の社寺とともに、蔵などの木造建造物が点在しており、古い趣のある家並みが見られる。信覚寺は文禄年間(1592~95)創建と考えられる。春日神社はかつて榊神社と尊称し、天正6年(1578)奈良春日神社の御分霊を勧請遷祀して春日神社と改称した。本殿は貞享2年(1685)建立で、境内には樹木が茂り、特に本社裏の楠は樹齢400年以上で、市の保存樹に指定されている。また、植原邸の長屋門や蔵、外構の巨大な灯篭、また井上邸の明治から大正時代に建築された門蔵など、歴史を感じさせる木造建築物が残っている。

安威川と番田水路に挟まれた散歩道

井高野駅 613 m

安威川河川敷は、「安威川水と緑の回廊計画」の一環として、公園や遊歩道などが連続的に整備されており、潤いのある水辺空間として散策を楽しんだり環境美化活動に参加するなど地域の方々に親しまれている。

延原倉庫(株)淡路物流センター

延原倉庫は、現在、貸倉庫業として西淡路6丁目に多くの倉庫を所有している。その中で、南東の門から見える5号倉庫は、第2次世界大戦の開戦の翌年(昭和17年(1942年)に完成した建物で、延原倉庫の前身の延原製作所が軍需工場の指定を受けていたころの建物である。鉄筋コンクリート造の巨大な空間は、長さ約280m、幅約20m、高さ約18mもあり、今もその当時の重厚さを残している。また、敷地の南西にある7号倉庫も同時期に建設された木造の建物で、大きな負荷に耐えられるよう、梁や柱が幾重にも張り巡らされた重厚な建物で、現在もそのまま倉庫として利用されている。(注)延原倉庫については、現在、物流総合センターとして機能しており、敷地内を多くのトラック等が往来していることなどから、一般に公開しておらず、倉庫の見学については、東淀川区役所が年に2回見学会(1回当たり最大参加人数20名)を開催することとしている。お問い合わせは、東淀川区役所総務課まで。

柴島浄水場

西中島南方駅 927 m

通水開始が大正3年(1914年)2月で、1日の標準給水能力は、1,180,000m3で、市内中部、北部、西北部に給水している。敷地面積約462,000m2のなかには、配水地やポンプ場、高度浄水処理棟などの設備が配置されている。阪急京都線の崇禅寺駅から淡路駅間東側線路沿いの460mには、樹齢50年以上のソメイヨシノを含め、合計160本の桜が植えられており、春には桜並木の通り抜けを開催している。また、崇禅寺駅の北側、柴島1丁目8番の東角には、昭和20年(1945年)6月の米軍機による空襲により浄水場の壁面に残された弾痕の一部が道路沿いに保存・展示されている。

淀川河川敷(東淀川区)

だいどう豊里駅 828 m

淀川は、ワンドや川べりに群生するヨシ原など変化のある自然環境に恵まれ、すばらしい景観をつくっている。河川敷には、自然とふれあいながら、スポーツや遊びが楽しめる場所として、芝生広場やテニスコート、野球場など、河川公園が整備され、多くの人たちに親しまれている。また、橋をはじめとする土木構造物、中でも柴島1丁目の長柄橋の近くの淀川大堰は、淀川の大事な景観の一部となっている。

環境局東淀工場

井高野駅 735 m

本施設は、老朽化のため平成13年(2001年)より稼動を停止していた旧東淀工場の建替えを行ったもので、平成22年(2010年)に完成した。施設の計画にあたっては、できるかぎり建物のコンパクト化を図り、壁面を分節化することにより威圧感を軽減するとともに、落ち着いたシンプルな外観や積極的な緑化により、周辺環境に配慮している。また、本施設では、排出されたごみがどのように処理されているかを見ることができる見学者対応設備を設けるとともに、動線・案内計画に配慮しており、すべての利用者・見学者にとってわかりやすく使いやすいものとなるよう計画している。

神崎川(東淀川区)

井高野駅 574 m

東淀川区内の神崎川では、「水とみどりのふれあい広場」や「なにわ自転車道」、「神崎川と新幹線」の交差、わが国で初めて採用された2主桁橋の江口橋など、特徴のある水辺が楽しめる。「水とみどりのふれあい広場」は、河川に親しむ空間として平成18年(2006年)に整備され、子どもたちの遊び場、市民の散策道、憩いの場として親しまれている。「なにわ自転車道」は、市民レクリエーションや健康増進を目的に平成13年度(2001年度)に整備され、周辺には江口の君堂、大隅神社などがあり、自然を楽しみながら東淀川区の歴史に触れることもできる。また、神崎川を東海道新幹線が横切っており、神崎川の自然景観軸に対して、規模の大きな人工構造物が横断する風景が見られる。

緑風橋

東淀川区下新庄地区は、木造住宅の密集地であり、広域避難場所に指定された淀川右岸河川敷まで2km以上離れている、いわゆる避難困難地区になっていた。しかし、神崎川を挟んだ対岸には吹田市の広域避難場所である中の島公園があり、両地区を連絡する橋があれば、下新庄地区の住民が短時間に同公園に避難できる。一方、吹田市側の住民にとっても、阪急千里線下新庄駅利用の便が図れるようになる。このように、本橋は両市住民にとって大きなメリットがあり、国土庁の防災緑地網整備促進事業の補助も受けて、両市協力のかたちで実施された。本橋は、居住区域と広域避難場所や地区防災広場を結んでネットワーク化する、防災緑地整備の一環にもなっており、快適な環境形成にかかわる側面も考慮に入れて設計されている。周辺の開けたロケーションのなかに、デザイン化された照明柱や高欄が設けられ、夜間は阪急千里線の電車からライトアップされた橋の風景が楽しめる。

行友家と楠

菅原1丁目にある行友家は、弘化元年(1844年)に建築された古民家で、北側道路に面したところに、門、塀、石垣が配置されており、門の両脇にある2本の大きな楠と一体となって、歴史を感じさせる一角となっている。楠は遠くからでもよく見え、直近ではその大きさに圧倒されるほどで、そのうちの1本が保存樹に指定されている(高さ約22m、幹回り約4.4m)。

逆巻の地蔵尊

瑞光四丁目駅 398 m

「逆巻の地蔵尊」は、弘化3年(1846年)、豊里大橋付近の阪巻村(現在は淀川の川底になった場所)に建立された。この場所は水流が激しく、帆を逆に巻かなければ転覆することから「逆巻の難所」と名付け、恐れられていた。幾度も船が難破し、数多くの犠牲者が出たため、慰霊と船便の安全守護を祈願して、この地蔵が建てられた。明治31年(1898年)、淀川改修のころ、観仏寺の住職が緋の衣を着た僧を背負って観仏寺に着いたところ、僧が地蔵に変わっていたという夢を見て、きっと工事で動かされる地蔵がここにいたいと夢告されたのだろうと考え、観仏寺が引き取り安置した。このとき、地蔵の下から犠牲者の戒名を書いた石が、80近くも出てきたそうである。六角の台石に座る蓮台をいれて1.6mもある大きな地蔵で、太く垂れた眉、小さい顔は、満面に慈悲をたたえている。

須賀森公園とくす

東三国駅 806 m

須賀森公園は須賀神社の跡地につくられた公園である。その由緒ある跡地を永久に保存するため、地元民の熱意で公園に姿をかえ、憩いの場となっている。ここには樹齢約600年の大楠があり、大阪府天然記念物に指定(昭和56年(1981年)6月1日)されている(樹高30m、直径1.6m)。

此花区

大阪北港マリーナ

ヨット・ボートを中心とするマリンスポーツやレクリエーション活動を通じて、海に親しめる施設である。テニスコートもあるほか、隣接する緑地では海を眺めながらスポーツやピクニックを楽しむことができる。

新夕陽ヶ丘

舞洲スポーツアイランドにある新夕陽ヶ丘には白い屋根の展望台があり、小高い丘の上からは舞洲や大阪港ベイエリアが見渡せる。空気の澄んだ日は、遠く淡路島や明石海峡大橋も見える。また、丘からは日本夕陽百選にも選定されたすばらしい夕日を見ることができる。

旧鴻池本店・本宅

旧本店は、明治43年(1910年)に建てられた、クラシック・モダンな木造洋館である。内部は流れるような美しい曲線と曲面、平滑な壁面などを特徴とするアールヌーボー様式を取り入れており、全国的にみても貴重な建物といえる。日本建築学会から「特に重要なもので注目すべき建築物」に選定された。旧本宅は旧本店と前後して建てられた町屋風の建物で、2階内部の装飾は、著名な彫刻家、相原雲楽の作品である。

舞洲工場・舞洲スラッジセンター

港から舞洲へ此花大橋を渡ると、一際目立つ建物が2つ見える。左側に見えるのが舞洲工場である。舞洲工場は、焼却設備と粗大ごみ処理設備が併設され、最新の公害防止施設の採用や最大限の余熱利用を行っている。右側に見える舞洲スラッジセンターは、下水汚泥を効率的に集中処理する施設である。この建物や煙突などの外観デザインは、環境保護芸術家として世界的に著名なフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー氏が担当し、外壁や屋上に木々を取り入れ自然との調和を図り、全体として「技術とエコロジーと芸術の調和」を表している。

舞洲工場・舞洲スラッジセンター

港から舞洲へ此花大橋を渡ると、一際目立つ建物が2つ見える。左側に見えるのが舞洲工場である。舞洲工場は、焼却設備と粗大ごみ処理設備が併設され、最新の公害防止施設の採用や最大限の余熱利用を行っている。右側に見える舞洲スラッジセンターは、下水汚泥を効率的に集中処理する施設である。この建物や煙突などの外観デザインは、環境保護芸術家として世界的に著名なフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー氏が担当し、外壁や屋上に木々を取り入れ自然との調和を図り、全体として「技術とエコロジーと芸術の調和」を表している。

淀川区

淀川河川敷(淀川区)

西中島南方駅 979 m

淀川区内の淀川河川敷に、都市部における貴重なオープンスペースとして淀川河川公園の西中島地区と十三野草地区があり、西中島地区は、野球場や芝生広場が整備されており、休日は野球やバーベキュー利用で賑わっている。十三野草地区は交通アクセスがよく、イベント会場としても利用されており、花火大会やマラソン会場等の利用で賑わっている。

港区

大阪市築港赤レンガ倉庫

大阪港駅 352 m

大正12年(1923年)、住友倉庫により港湾倉庫として建設。港区では空襲にも焼け残った数少ない建造物。現在は大阪市が管理している。耐震上の問題から閉鎖しているが、広く市民に親しんでいただけるよう隣接する広場を開放するなど、今後とも倉庫の活用に向けた検討を行うこととしている。

安治川水門

弁天町駅 974 m

大阪ではジェーン台風や第2室戸台風など高潮による大きな被害を受けてきたことから、その対策として、昭和45年(1970年)に建設された。耐震、耐風の安全性や、船舶航行時の必要上部空間を確保出来ることからアーチ型水門(幅57m)が採用された。

桜通り

弁天町駅 672 m

桜通りには、南北800mに渡ってソメイヨシノとサトザクラが植えられている。桜並木は、地域住民により植えられ、管理されているもので、港区の桜の名所となっている。桜の開花時期には地元愛護会によりぼんぼりが飾られる。

生野区

コリアタウン

鶴橋駅 1006 m

御幸通商店街はJR環状線の鶴橋駅と桃谷駅の間にある商店街で、韓国食料品店や飲食店、民族衣装の店が500m程の通りに約140店舗が軒を並べる。多くは在日コリアンの人々による経営で、街中はハングルにあふれ、全国で最も在日コリアンの人々が集中する地域とされる。近年では地元によりNGOが結成され、他地方から修学旅行などで訪れる中高生を相手にキムチ作り体験やハングル教室、街案内などを行っている。中央門、百済門はコリアタウンを象徴する意匠となっている。

中高野街道沿いの家並み

南巽駅 83 m

中高野街道は、京街道守口から分岐して大阪狭山市で西高野街道に合流する長大な街道である。途中、古くからの町々を通過しており、巽小学校から巽神社付近の沿道には、古い民家や念仏堂、碑がみられるなど、落ち着いた佇まいの家並みとなっている。

俊徳街道道標2基と西俊徳地蔵堂

生野区勝山北4丁目に西俊徳地蔵堂があり、等身大の座像石仏が祀られている。説明板には、俊徳丸が四天王寺へ参る際、清い流れの平野川のほとりで休憩したとある。この地蔵堂横には四天王寺南門からほぼ真東へ延びる俊徳街道の道標が二基ある。街道を東へ進むと東俊徳地蔵堂があり、尊像は堂内奥に安置されており、立派なお姿は拝めないが、彫刻様式から室町末期の作と思われ、地元の人々の手により手厚く祀られている。

平野川の自然的景観

南巽駅 1038 m

かつての平野川(旧平野川)は、生野区「俊徳橋」の北辺りから東成区の「中本橋」辺りまでをきわめて曲折して流れていたため、しばしば氾濫の元になった。そこで流れを変えるため、大正12年(1923年)にいまの平野川(新平野川)のように直線に改修された。いまの平野川の延長は、大和川分派点~第2寝屋川合流地点まで、17.375m あり、平野川は、奈良朝より平安朝にかけて百済郡(くだらごおり)が置かれ、その中央を流れていたので古くは百済(くだら)川と呼ばれていた。平野川大橋から両国橋付近は、自然な川の流れやカルガモなどが見られる。

旧猪飼野村にある旧家・大東邸

鶴橋駅 996 m

旧家「大東邸」は、土蔵の外壁材は古い船板を使っており、300坪以上ある屋敷内には広大な庭園や古い石枠の井戸が現存し、母屋の中(昔の土間)にある井戸は現在も散水用などに使用しているという。昔の面影を残す旧家の大きいものがこれまでに多く解体され、旧猪飼野村(現在の鶴橋)では現存するものは珍しい。

木村権右衛門邸跡の神木

鶴橋駅 1076 m

木村重成(大坂夏の陣で討死。享年23歳)の姉婿 猪飼野左馬助の子孫である木村権右衛門邸宅の跡地にある。現在は駐車場となっているが、樹齢約400年の椎の木の神木と立派な石灯籠、庭石が残されている。神木は重成のお手植えといわれている。

翠岩さん墓所と頌徳碑

小路駅 531 m

約300年前、旧中川村に生まれ地域の福祉増進などに私財を投じた住吉屋太郎右衛門の墓である。住吉屋太郎右衛門は、後に、剃髪し翠岩と号したが生来慈善心に富み、公共心が強く、近郷の橋11カ所の架設や道路修理、社寺への寄金、村民への施米資金の寄付等、多くの功績が残されている。当時、寄付された土地は現在も中川町財産区として管理運営されており、福祉や地域振興に恩恵を与え続けている。墓石の入り口には、翠岩さんが架けた石橋の一部が記念石として置かれ、遺徳が偲ばれている。

鶴橋地域に残る旧家の家並み

鶴橋駅 701 m

桑津街道は、上町台地の細工谷を起点とし、東住吉区の桑津天神社に至る街道である。仁徳天皇が高津宮から、桑津に住む妃髪長媛(かみながひめ)のもとに通ったとされる。この街道は旧木野村(現在の桃谷2丁目周辺)の集落も通っており、この辺には旧家の家並みが残っている。

福島区

トンネルの路地

玉川駅 481 m

野田商店街を北から南へと安治川の方へ抜ける途中の大野町公園を少し通りすぎた所にトンネルの路地がある。この路地は古い民家と薬屋さんの間の長さが10mにも満たない狭い通路であるが、民家の屋根が路地の上を覆いトンネルになっている。

旧川崎貯蓄銀行福島出張所(ミナミビル)

野田阪神駅 924 m

JR新福島駅近くの国道2号線に面したミナミ株式会社の建物は昭和9年(1934年)に建てられ、国の登録文化財に登録されている。鉄筋2階・地下1階建てのミナミビルは、イオニア式の4本の円柱が取り付けられた正面が後方に緩やかなカーブを描き、奥行き感を出している。玄関の円弧状のひさしには彫刻が施されているほか、ビル内部の柱の頭にもコリント式飾りが見られ、華やかさを演出している。

樹齢200年のクスノキ

野田阪神駅 587 m

樹齢約200年のクスノキが民家の塀から道にせり出して生えている。この木は一見すると塀の外から生えてきたように見えるが、実は根が家の地下までおよんでいる。背の高いトラックが枝に当るたびに振動が伝わり、家が大きく揺れるそうである。

莫大小(メリヤス)会館

玉川駅 773 m

堂島大橋北詰に位置する「莫大小(メリヤス)会館」は、大阪輸出莫大小工業組合が、組合の事務所として、昭和4年(1929年)の第1期、昭和12年(1937年)の第2期に分け建設した。伸縮自在なメリヤスは莫大にも小にもなる意味から「莫大小(メリヤス)」とされた。現在は、テナントビルとして、建築設計事務所やレストラン・カフェ、ギャラリーなどが入居している。(設計:宗建築事務所、施行:大阪橋本組)

野田の長屋

玉川駅 115 m

福島区は戦災の被害にあまり遭わなかったため、長屋など昔の住居が比較的多く残っており、うだつのある家もある。昭和に入ってガラスが比較的安価に入手出来るようになり、大きくガラス窓を配した長屋が人気だった。

野田緑道

玉川駅 663 m

野田緑道は、昭和60年3月に廃線となった中央卸売市場への引き込み線跡地を公園として、整備したものである。地域の環境にうるおいを与える公園として整備され、現在では住民の憩いの空間として親しまれている。

西区

京セラドーム大阪

ドーム前千代崎駅 355 m

平成9年(1997年)にオープンした全天候型の多目的ドーム。アリーナ上部の大屋根の外周に、さらに小型の屋根が取り囲むようにうねりながら続いている点が特徴的。プロ野球やスポーツイベント、文化イベントなど、年間を通じて各種イベント等に活用されている。

大阪アドプト・リバー・千代崎(木津川右岸)

ドーム前千代崎駅 94 m

水の都大阪再生構想の一環として大阪府により木津川右岸に船着場と遊歩道が整備された。それに伴い、平成17年(2005年)、千代崎連合振興町会と大阪府との間でアドプトリバー・プログラム協定が締結され、本区間は美化・清掃活動により美しい景観が保たれている。

安治川

阿波座駅 638 m

貞享元年(1684年)、幕府の命を受けた河村瑞賢によって開削された。その結果、大阪の街の中心へ船の出入りが容易になり大阪の発展に寄与した。河川の両岸には、舟運が盛んだったころを偲ばせる工場や倉庫などが建ち並び、「大阪港開港の地」の碑をはじめ、多くの石碑が存在している。

島谷家住宅

九条駅 413 m

本田4丁目には戦災を逃れた長屋の街並みが残っている。その一角にある長屋住宅では、1階に格子の玄関や出格子の窓が見られ、1階屋根と2階屋根の間にうだつが上がっている。

日本聖公会川口基督教会

阿波座駅 411 m

煉瓦造の聖堂は大正9年(1920年)に竣工。設計者は建築家ウィリアム・ウィルソン。東側に玄関ホールを設け、東南角に高さ19mの搭屋を構える。平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたが、関係者の熱意により修復された。

旧岩崎運河

大正駅 452 m

木津川と尻無川を結ぶ長さ560mの運河。尻無川が大型船の航行に不向きであったため、尻無川と木津川を結ぶために大正9年(1920年)に開削された。下流には、昭和3年(1928年)に岩崎運河橋梁が架けられ、JR環状線の一部となっている。右岸には、岩崎橋地区の開発に合わせて親水性の高い空間が整備されている。なお、現在は木津川分派点から旧岩崎運河を含む河口までが尻無川である。

菅澤眼科クリニック

肥後橋駅 660 m

昭和3年(1928年)に建築、昭和22年(1947年)に改修された眼科医院。正面玄関の柱とアーチ、ドイツから輸入されたタイル貼りの外壁、細長いアーチ窓が特徴的である。

道頓堀川水門

ドーム前千代崎駅 288 m

平成12年度(2001年3月)完成。東横堀川水門とあわせ、高潮防御機能、水質浄化機能、舟運活性化機能などの役割を果たしている。木津川の対岸にある岩崎橋地区の景観に配慮した設計となっており、近未来的な外観デザインが特徴的である。

都島区

櫻宮御旅所 渡辺綱・駒つなぎの樟(くす)

都島駅 412 m

明治42年(1909年)まで旧善源寺(ぜんげんじ)村の産土神社(うぶすなじんじゃ)が鎮座したところで、現在の櫻宮御旅所(さくらのみやおたびしょ)に、このクスノキの大樹がある。この木は平安時代の中ごろ、源頼光(みなもとのよりみつ)が社を創建する際に植えたもので、頼光の四天王の一人で、この荘園の管理を任されていた家臣の渡辺綱(わたなべのつな)が参詣するとき馬をつないだとの伝承があるところから「渡辺綱・駒つなぎの樟(くす)」と呼ばれている。

淀川河川敷(都島区)

淀川河川敷には淀川河川公園が、昭和47年(1972年)から整備されており、当地区は昭和51年(1976年)に整備された。都島区に位置する公園部分は、スポーツのためのグラウンドのほか、芝生広場や野草広場が広がっており、家族そろって楽しめる空間となっている。緑地部分の面積が幅広く、ゆったりした淀川のランドスケープを楽しむことができる。

藤田邸跡(太閤園、藤田邸跡公園、藤田美術館)

大阪ビジネスパーク駅 563 m

鵺塚

都島駅 178 m

平家物語によれば、平安末期、近衛天皇(このえてんのう)を夜ごと悩ませていた怪鳥を源頼政(みなもとのよりまさ)が射落としたところ、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿で鳴く声は鵺(とらつぐみ)に似ており、これを鵺(ぬえ)と言い、鵺を丸木舟にのせて淀川に流したところ、澤上江(かすがえ)の渚に漂着したが、祟りを恐れた村人たちが母恩寺(ぼおんじ)の住職に告げ、ねんごろに弔って土に埋め、これを「鵺塚」としたと伝えられる。現在の塚は明治3年(1870)年、大阪府が改修し、祠も昭和32年(1957年)に地元の人々によって改修されたものである。この「鵺」は大阪港の紋章のデザインとしても使用されている。

阿倍野区

Hoop

天王寺駅 179 m

都会的なオープンスペースと、昼と夜とで表情が変わる斬新な形状の建造物が特徴的な都市商業施設である。商業施設の賑わいを醸しだすため、建物中心部外壁はガラススクリーンで構成され、視認性の高い構造となっている。建物の内と外の境界線は存在せず、行き交う人々は何かに束縛されるということなく自由に空間を楽しむことができる。平成12年(2000年)9月開業、地上6階、高さ約30m、延床面積約20,000㎡。

はやし製菓本舗

昭和町駅 569 m

あべの筋から1本東の通りに位置する南北100mにわたる王子1丁目商店街には、お寿司屋さんや精肉店等が並んでおり、その中に、浪花ことばせんべいで有名な「はやし製菓本舗」がある。創業80年以上の老舗のせんべい屋で、浪花ことばせんべいには、「べっぴん」「はんなり」などの浪花ことばが1枚1枚に刻印されている。

ドムール北畠

岸里駅 715 m

風致地区の由緒ある古い住宅地、その敷地の高低差と在来の大樹を生かし、歩車共用の道路沿いに個性的な住戸を配置している。昭和57年7月に完成。

北畠住宅

西田辺駅 448 m

大正期の分譲市営住宅である。一角には「北畠自治町会」の石柱がある。大正時代に「桐山」と呼ばれる森だったこの地が、周辺に先立ち区画整理されたことにより、周辺とは異なる区画形質の街区に位置する。また、街区内の道路も未舗装となっており、この地域の市街化履歴を語る上では重要な資源である。

大阪市立工芸高等学校・第二工芸高等学校

文の里駅 268 m

世界に巻き起こったモダンデザインの中枢を担ったバウハウス運動の影響を色濃く受けて誕生した大阪市立工芸高等学校・第二工芸高等学校の本館は、大阪のバウハウスと呼ぶにふさわしい、モダンな建築デザインと感性を誇っている。1、2階の外壁はレンガ積みで、玄関入口の大アーチが正面を引き立てており、3階には優美な曲線のマンサード風の屋根がかけられ、教室の窓で区切ることで、曲面の美しさを一層際立たせるなど、外観全体が極めて特徴的なデザインになっている。屋根上にはシンボルの時計台がそびえ、アールヌーボーの建築様式をより一層印象づけている。デザイン・造形を総合的に学ぶデザイン系5学科と美術科で構成される全国で唯一の高等学校で、大阪市立工芸高等学校として大正12年(1923年)に設立されている。その後、昭和16年(1941年)に第二本科(夜間部)が設置認可され、昭和28年(1953年)に第二工芸高等学校(定時制課程)として独立している。

大阪府阿倍野警察署

阿倍野駅 692 m

あべの筋と阪神高速の交差点から南側に300mほど下がったところに位置する警察署の建物である。左右シンメトリーな外観となっている。平成2年6月完成、地上7階、地下1階。

奧田邸のクスノキ

西田辺駅 275 m

寛文3年(1663年)に猿山新田を開墾した奧田市郎兵衛の子孫の方が住まれている非公開邸内に大阪市指定の保存樹のクスノキがある。新田の開墾時に防風と美観のために森林を造成し、「猿山の森」と呼ばれていた。このクスノキはその森の名残である。

姫松停留場

西田辺駅 1137 m

路面電車という性格上、プラットホーム上に上屋が設置されるだけの簡易なものが多い中、姫松駅は独立型のものとして整備されており、木造、平屋建て、鉄板葺きの小ぶりなデザインの駅舎である。建築年代は電化が進む大正7年頃のものと考えられる。正面に開口部を設け、内部は1室の空間である。柱には腕木のような形で桁を支え、また柱上と桁の間には格子状に束を入れる。

岸の五本松

岸里駅 1093 m

「岸の五本松」と呼ばれる松の木が府立住吉高校正門の西筋向い、グラウンドに沿って残されている。古くはこの界隈にも松林が続き、松の木が多く茂っていたが、市街化され、住宅地となり、わずかに5本の松だけが道路沿いに残された。現在は、1本が枯れて4本になっているが、地域の人々は、岸の姫松との由緒を大切に思い、「岸の五本松」と呼んで長く親しまれている。

晴明丘中央公園

西田辺駅 1059 m

阪堺電軌上町線の線路沿いにある公園で、北畠駅の南側に位置する。面積が約12,000㎡と広々とした公園で、樹木が生い茂り人々の憩いの場となっている。開園:昭和57年(1982年)3月。

松虫塚

昭和町駅 800 m

昔、この辺りは見渡す限りの原野で、秋には虫の声が満ち、特に松虫(今の鈴虫)の澄んだ音色が美しく、名所として知られていた。古書「芦分船」によると、後鳥羽上皇が寵愛した白拍子の松虫、鈴虫姉妹が隠れ住んだといった伝説などが残されている。

桃ヶ池長屋

田辺駅 590 m

この長屋は昭和4年(1929年)に建てられたものである。昭和初期としてはめずらしい通り庭のあるちょっと贅沢なつくりとなっている。長屋前の道は、田辺から王子神社をつなぐ街道筋として栄え、商売をする人が多く住んでいた。今は現在の暮らしに合わせて、壁の塗り直しや一部床のはり直しを行っているが、柱や梁などの骨組みは当時のまま残っている。

源正寺楼門

昭和町駅 1031 m

平成14年(2002年)国の登録文化財に登録される。楼門は明治22年(1889年)に建てられ、大正12年(1923年)に上本町6丁目から現在地に移転された。大阪大空襲によって本尊などほとんどが焼失したが、楼門・経塚等が戦災を免れた。知恩院末寺で、初重袴腰を塗込める竜宮造の楼門で、上層は出組、二軒繁垂木、入母屋造、本瓦葺とする。蟇股や肘木の形式・絵様に近代らしい意匠が充溢するとともに、旧熊野街道に面し竜宮門として親しまれている。

熊野街道

昭和町駅 776 m

平安中期頃から、上皇や貴族たちの間では、熊野を苦行の果てに辿り着く浄土の地と憧れ、熊野詣が盛んになった。大川の船着場、天満の八軒家浜から続く熊野街道は、あべの筋を松虫の交差点へ南下し、あべの筋の1本西側の細い道へと入る。落ち着いた静かな街並みに社寺や歴史的な民家などが点在し、人々が行き交った祈りの道「熊野街道」の面影をしのぶことができる。

聖天山

天下茶屋駅 637 m

聖天山辺りは、昭和25年(1950年)までは、原生林のような手つかずの荒れ地であり、帝塚山古墳ほどの規模の周濠をもった前方後円墳であったと推定されている。聖武天皇はこの古墳に立ち寄り、古くは聖武帝山と呼ばれていたが、正圓寺に大聖歓喜天を祀ったことから聖天山と呼ばれるようになった。聖天山公園は、昭和34年(1959年)10月の開園で、面積が約16,500㎡の公園で、公園の中央付近には、クスノキの巨木がある。「聖天さん」で有名な正圓寺は古義真言宗京都東寺の末院で、天慶2年(939年)に現在地の東方500mにお堂を建て開基し、「般若山阿倍野寺」と呼んだのが縁起である。正圓寺の正面参道横に「大聖歓喜天」と彫られた石標があり、その台石として「兼好法師藁打石」が残っており、聖天山公園南入口の高台に「徒然草」の序段が刻まれた「吉田兼好文学碑」が建てられている。

路面電車の走るあべの筋

阿倍野駅 180 m

あべの筋は、阿倍野区と住吉区を南北に縦断する道路で、その中でも阿倍野筋1丁目のあべの近鉄前交差点から約1.2kmの区間は、阪堺電気軌道上町線が設置されている。歴史的には、明治18年(1885年)に現在の南海電気鉄道の前身である阪堺鉄道が難波~大和川間に開通し、大阪市が発足した明治22年(1889年)には、天王寺駅が開設。明治33年(1900年)には天王寺西門前~東天下茶屋間に、現在の「チンチン電車」阪堺電気軌道の前身となる、大阪馬車鉄道が開通し、レールの上を馬車が走った。その後、人口の都市集中化とともに、利用者が急増し、馬車鉄道では電化が検討され、明治42年(1909年)に南海電鉄(昭和55年(1980年)南海から分離)と合併し、翌年から電車に切り替えられた。交通量の増加によりその多くが廃止されている中、あべの筋の中でもこの区間は今でも「チンチン電車」が残っており、駅前の開発が進む中でのどかさを楽しめるひときわ市民に親しまれた景観となっている。

阪南町界隈の特徴的な長屋・住宅のある町並み

文の里駅 541 m

阪南町界隈は大正13年(1924年)に設立された「阪南土地区画整理組合」によって順次、町並み整備が行われ、その際に様々な長屋が建てられた。伝統的な住宅様式から和洋折衷あるいは大胆な洋風のものまで様々な創意工夫がされた長屋が現在でも多く残されている。また、この界隈には、長屋以外の住宅でも特徴的なものが多く残されている。

阿倍野七坂(さくら坂)

岸里駅 833 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野七坂(みどり坂)

岸里駅 1027 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野七坂(みなみ坂)

岸里駅 1090 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野七坂(みや坂)

岸里駅 837 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野七坂(やしろ坂)

岸里駅 899 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野七坂(相生阪)

岸里駅 1035 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野七坂(相親坂)

岸里駅 937 m

阿倍野区の西側一帯は南北に続く上町台地の西端に位置し、起伏に富んだ地形になっている。安倍晴明神社、阿倍王子神社から熊野街道を南に下り、最初の十字交差点を西へ入ると、相生通に出る。相生通周辺やその南の阿部野神社周辺は、浸食によりいくつかの谷ができたため、坂の多い地形になっている。阿部野神社の社から名付けられた「やしろ坂」、正面参道に続く坂道の「みや坂」といった神社に由来している坂をはじめ、かつては名前の通り桜並木の美しかった「さくら坂」、他にも「みどり坂」や「みなみ坂」がある。また、相生通にある相生郵便局の角から北に上る細くて急な坂道は「相親坂」と呼ばれており、相生通の人たちが王子町方面へ買い物に出かけるとき、この坂の下でよく出会い挨拶を交わしたことから名前がついたと言われている。その東側にあり南へ上る坂道は、「相生阪」と呼ばれている。紀州街道の天神ノ森から東へ延びる町並みが、坂付近で相接するので名前がついたと言われている。

阿倍野区民センター

阿倍野駅 375 m

大阪市では、コミュニティ活動の拠点となる多目的な集合施設として、各区に区民センターもしくは区民ホール、会場を整備している。収容人数が600人を超える大ホールや集会室だけではなく、スタジオや調理実習室、アトリエ兼工作室も完備されている。平成14年1月完成、地上12階、地下1階(地下1階~2階は区民センター、3階は図書館、4階~12階は公社賃貸住宅)。

阿倍野歩道橋

天王寺駅 163 m

本歩道橋は、阿倍野再開発事業の一環として架け替えが計画され、平成18~19年度(2006~7年度)にかけて「阿倍野歩道橋デザイン・設計コンペ」を実施し、「大阪の南の玄関口に相応しいランドマーク的な位置づけ」、「開放的な歩行者空間の創出」、「バリアフリー化を推進し、賑わいある通行路を確保」などの条件提示のもとで公募した中から、『阿倍野(abeno)の「a」からまちがはじまる』というテーマでデザインされた作品を最優秀作品として決定し、そのデザインをもとに設計、施工が行われ、平成25年4月に全面通行を開始している。様々に高さを変える屋根や構造体による変化に富んだ空間と、道路にせり出し天王寺公園を望む展望スペースなどにより、歩く・話す・眺める・待ち合わせるなど、多様な活動の起点となる新しいタイプの歩道橋が誕生した。本歩道橋は平成25年度(2013年度)に土木学会関西支部 技術賞、平成26年度(2014年度)にグッドデザイン賞を受賞している。

阿倍野長屋

西田辺駅 520 m

あびこ筋から東に一歩路地へ進むと、少し懐かしい下町の姿があり、その一角に「阿倍野長屋」が所在する。中には、洋館があったり、中庭を覗める縁側があったり、一度腰を下ろすと気持ちが和む場所である。様々な人が利用できるスペースとして、時間単位や1日単位でレンタル可能で、交流会、パソコン教室、ヨガ教室、展示会など様々なイベントに利用されている。

鶴見区

中高野街道の剣街道

今福鶴見駅 1100 m

京都や大阪から和歌山の高野山へお参りする人たちが多く利用した中高野街道は、この辺りでは“剣街道”とも呼ばれていた。“剣街道”の名称は、江戸時代に八剣神社と呼ばれた阿遅速雄神社の参詣道であったことから名づけられたともいわれている。

井路の名残り

鶴見緑地駅 859 m

鶴見区は低湿地帯であったため、人口の水路である井路が網の目のように通っており、戦後しばらくまで三枚板でできた船が人や物を載せて行き来していた。昭和40年代以降埋め立てられ、ほとんどが道路になってしまったが、一部に昔の風情を残している。

横堤 花と緑のプロムナード

横堤駅 270 m

西三荘都市下水路の、横堤橋~緑地橋間の約500mを覆蓋し、区民の憩いの場、遊歩道として整備している。「土を感じる道」「石を感じる道」「木を感じる道」「水を感じる道」のゾーンに分け、ベンチや特徴ある植栽を配置し、楽しく歩ける工夫が施されている。

鶴見はなぽ~とブロッサム

門真南駅 506 m

多くの人々が花と出会い、花に親しみ、より豊かな暮らしを育むためのアメニティスペースとして誕生。月下美人の花のイメージを表現した外観が特徴的。花の卸売市場として西日本の中核的役割を果たす「大阪鶴見花き地方卸売市場」と、ショッピングだけでなく、毎週末のイベントなど様々な楽しみ方ができる日本初の本格的アウトレットモール「三井アウトレットパーク大阪鶴見」からなる、流通・商業が一体となった複合型施設である。

出典:大阪市 観光施設一覧 (CC BY 4.0) のうち都市景観資源の行。名称と説明は大阪市の記載のままです。うち150か所は直線1200m以内にOsaka Metroの駅があります。観光スポット一覧にある場所はここでは繰り返していません。