中島大水道跡

中島大水道跡

史跡

紹介

江戸時代、北中島一帯は一万数千石の米を生産する農村だったが、低湿地で土砂堆積による洪水がひどく、一柳太郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が先頭に立って、幕府に排水路の設置を強く訴えた。幕府は「工事の費用は、すべて百姓が負担する」という条件をつけて設置を許可したが、不作に苦しむ村民が「せめて多少の補助を」と嘆願すると、感情を害し、許可を取り消した。耐えられなくなった三庄屋は、延宝6年(1678年)3月11日、新太郎松樋(しんたろうまつひ)を水路の拠点として、無許可のまま工事を強行した。村民たちは老若男女を問わず工事に参加し、昼夜の別なく働いて、福村吐口樋(ふくむらはけぐちひ)までの5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90センチメートル)の水路を28日間で完成させた。現在の東淀川区から西淀川区に至り、大阪湾に直結した大水路は埋め立てられたが、西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」(昭和63年)が建てられている。

大阪府・大阪市 観光施設一覧より (観光施設一覧, CC BY 4.0).

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基本情報

史跡 東淀川区・大阪

近くの見どころ

出典 大阪府・大阪市 観光施設一覧 (CC BY 4.0). 写真のクレジットは利用規約ページにまとめています。